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「学校に行きたかった……」
腕の中でか細く呟く彼女のおでこは肉が薄くて、骸骨を抱いているような気がした。
中庭に向いた縁側も見える8畳ばかりの畳の上だった。
薄い布団の上で。薄紫の浴衣にくるまれた彼女は、健康ならば中学校の制服が似合っていたはずの12歳の少女。
本来なら、身体は丸みを増して女らしさを見せ始める年頃なのに。
でも僕の腕の中の彼女の身体はやせ細って、少女の幼気さの欠片も無かった。
脳腫瘍とかいう悪い病気で、もう助からないと言われている従兄妹が居る事は知っていた。
高1の僕は、悪いとは思いながらもその子の事を考えないようにしていた。
あってはいけないことだが、その子の家とはそれ程親しくして居なかったこともあって。
家に親戚が立ち寄る機会が有った時に、稀に名前が出るだけのその子の存在を僕は意識の外に押しやっていた。
死期を悟って生き続けている小学生の女の子が身近に居る。
その事実はまだ16歳の僕には重すぎた。
正直に言えばその子の事をたまに思い出す事はあった。
でもその度僕は、駄々っ子みたいにその思いを押しのけた。
辛かったんだよ。
もし自分が死期を告げられたなら。
もし僕がもう学校に行けないと言われたら。
もう友人と遊べないと言われたら。
臆病で弱虫の僕は耐えられなかった。
自分が病に倒れた訳でも無いのに。
自分が余命を告げられた訳でも無いのに。
馬鹿で愚かな僕は泣いた。
その子の事を考えるだけで。
情けない僕は布団をかぶって泣いた。
みっともなくて。
何も出来ない自分が悔しくて。
小学5年で発症して。
突然起こる発作に、「これ以上の通学は不可能です」と言われた彼女は、以降自室の縁側から見える庭の眺めだけを慰めに生きていたのだという。
始めのうちは級友が良く訪ねてきてくれたとも聞いた。
だが自宅療養が長引き、教師にも生徒にも、もう彼女が助からないという事実が浸透するにつれ、訪れる人の数も減っていったという。
会いに行こうかとも思った。
学校の話しでも聞かせてやろうかとも考えた。
でも僕は結局何ひとつしてやらなかった。
僕は臆病で。
僕は卑怯で。
僕は未熟で。
何もしない自分に言い訳して。
何も出来ない自分を慰めて。
布団をかぶって逃げていた。
だからだ。
僕は天罰を受けた。
「ちょっと届け物にいってきて」
あの日、遊びに出掛けようと玄関に出た僕に、風呂敷に包まれた空の重箱を差し出した母。
おじさんかおばさんに渡せばいいのだろうと軽い気持ちで風呂敷を受け取った僕は歩いて20分程の親戚の家の引き戸を開けて声を掛けた。
返事のない家の中の様子に、風呂敷包みを玄関に置いて帰ろうとした僕の耳に。
「はい……今行きます……」
微かな物音に続いて浴衣の少女が姿を現した時。
正直僕は怯えた。
廊下の奥から障子を開けて出て来た少女の顔は土気色で。
肉の落ちた顔は骨に皮を張りつけたようなどくろそのままの表情の上に細い髪を垂らしている。
ずっと床に伏していたからだろう。
浴衣を着ていなければ男か女かもわからないやせこけた身体つき。
「ごめんなさい……お父さんも、お母さんも出かけてて」
少女のか細い声に、僕は現実に引き戻された。
意識の住処から追い出していたあの少女。
健康ならば花も恥じらう女子中学生なのだと思い出して僕は勇気をふるった。
「おばさんにお借りしてた重箱返しに来たんだけど」
ふらつきながら玄関まで来た少女はご丁寧にかまちに正座して指をついてみせた。
小学5年で学業も諦めた少女。
何処でこんな作法を覚えたんだろう。
そんな思いが僕の脳裏に浮かんだ。
「ありがとうございます。わざわざ」
正直少女の見た目への怯えもあって、僕は逃げ出そうとした。
「これ言付かっただけだからこれで……」
踵を返そうとした僕を、どくろに張り付いたような大きな瞳が引き留めた。
「上がっていってください……お茶入れますから」
現実から目を背けようとした僕の臆病さは心の中の良心とか言う邪魔ものに罵られた。
(彼女、話し相手してくれる人間も居ないんだぞ)
神様は僕を逃がしてはくれなかった。
通された居間の座布団を横にのけた僕の前に、お盆に載せた麦茶を運んで来た少女。
まともに彼女に眼も向けられない僕に、少女は汗を滴らせるコップを押し寄越す。
「こんな物しかないんですけど……」
どう見てもまだ小学生の体格の少女。
そんなことを思ってはいけないと思いながら、僕は骸骨の様な彼女の立ち居振る舞いに胸を締め付けられていた。
(苦しくないんだろうか)
(痛くは無いんだろうか)
そんな僕の思惑など知った風も無く、少女はどくろの様な顔に笑みを浮かべた。
(これは罰だ)
(これは逃げてばかりいて、彼女に手も差し伸べなかった卑怯者の僕に神が与えた罰なんだ)
「高校に行ってらっしゃるんですよね」
およそ年齢不相応な少女の言葉に僕は息を呑んだ。
「本で……覚えたんです……」
彼女の視線の先は部屋の隅、小さな本棚に向けられていた。
学校にも行けなければ、恐らく外出もままならないだろう少女にとっての唯一の外界との絆。
本の世界で。
本を友に。
文字に寄り添い、文字と笑い合い、文字と共に涙して。
込みあげた想いに僕は揺らめいた。
驚いたように僕を見上げた彼女の表情が歪んだ。
それでなくても醜い少女の表情が激しく歪む。
静かに座っていた少女の身体が大きく跳ねた。
僕は咄嗟に彼女に飛びついた。
抱きとめた少女の身体が棒のように突っ張る。
(発作だ)
辛うじてそれだけ分かった僕に、痙攣を起こしながらも少女は懸命に視線で襖の向こうを指示した。
少女を小脇に抱えたまま襖を開けて。少女の寝床だろう、薄い布団の上に移動した。
激しい痙攣が少女を襲い、両の手が少女を抱きとめている僕の胸の肉をシャツ毎掴む。
痛い。
強烈に痛い。
少女のどこにこんな力が有るのかと思うと同時に。
やせ細ったこの子の指にこれほどの力を与えるほどの苦痛。
一体この子の身体にどれほどの苦痛が押し寄せているのか。
今感じている痛みはこの子の痛み。
それももう高校生の僕より遥かにひ弱な少女に与えられている。
僕は只、彼女が分け与える痛みに負けぬようにと強く少女を抱きしめた。
どれだけそうしていたのか。
あまりに突然の出来事に、無我夢中で少女を抱きしめていた僕に。
「有難う……」
穏やかな声に僕は我を取り戻した。
棒のように強張っていた少女の身体は嘘のように柔らかさを取り戻している。
今の今まで気づきもしなかった温かさ、細く軽そうに揺れる少女の前髪。
骸骨の様だと怯えていた気持ちが綺麗に消えていた。
「ネクタイに憧れてたんです……」
縁側の向こう。中庭に咲き誇る白と薄紫の花。
落ち着きを取り戻した少女の声は、まさしく12歳の少女の幼気なそれだった。
「白いブラウスにエンジのネクタイ」
夢見るような少女の瞳には、先程の苦悩の欠片も見えなかった。
何も言えなかった僕は只少女の手を握りしめた。
「中学生になったら、お付き合いとかもするんですよね」
無邪気に笑顔で問う少女に、僕は指先で彼女の額に滲んだ汗を拭ってやる事しか出来なかった。
「あたしも、一度くらいデートしてみたかったな……」
だらしなくて。
惨めったらしくて。
箸にも棒にも掛からない僕だったけれど。
この時だけは神様が僕に力を貸してくれた。
イケない事は百も承知で。
僕は彼女の顔に顔を寄せた。
「今デートしてるじゃないか」
僕の笑顔に答えた彼女の寝顔は穏やかな笑顔だった。
結局あの子はいなくなってしまった。
でも僕はその事を今、少しも悔やんではいない。
あのこはその命と引き換えに僕に命の一歩を与えてくれた。
あの後嫌な事もあったし。
悔しいことも多かった。
でもあの子の事を思い出す度。
僕は何度でもやり直せる気がするんだ。
あの子は居なくなった。
そして。あの子は居なくならなかった。
あの子が居なくなって何度目かの春。
おじさんもおばさんももう笑顔だ。
僕は庭に植えたアネモネに今日も挨拶する。
「おはよう」
アネモネは微かに揺れて答えてくれる。
あの子が微笑んでいるんだと想う。
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