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明るい満月の晩、わたしは森を歩いていた。
特にあてはない。どこに行きつくのかさえも決めていないこの散策は、わたしにとってはただの暇つぶしになっていた。
木々がまだらになり広いところに出た。そこには先客がいた。
私は旅人だ。私の両親も旅人で、それぞれの祖父母も旅人だった。
荒野や廃墟など世界の各所を巡り、そして今回は森に入る。
木々がまだらになりひらけた場所にテントを張り、火を起こす。
がさがさという音が草むらから聞こえ、珍しい客がやってきた。
「驚いた」
その人はわたしを見てそう言った。驚いたと言ってはいるがその口調はとても落ち着いている。
「その割には落ち着いているようだが」
わたしの疑問にその人はたき火の上にポットを置きながら答える。
「旅をしていると常に驚きがあるから」
よかったらどうぞとたき火の横を指し示す。
わたしは示された場所に座り込む。
「旅人か」「ええ」
「一人で?」「まあ、そうです」
短い言葉のやりとりをし、そして終わる。
たき火のはじける音とさわさわとした風の音がわたし達の間に流れる。
少し時間がたって。
その人はカバンからマグを二つ取り出し片方を持ち温めているポットに手を伸ばす。
ポットからお湯を少し注ぎ、軽くうなずくとマグに粉末を入れふたたびお湯を注ぐ。
「それは?」「コーヒーです」
「コーヒー?」
耳慣れない言葉にわたしは聞き返す。
「焙煎して挽いた豆をお湯や水にとかした飲み物です」
どうぞとコーヒーとやらを注いだマグをわたしに差し出す。
わたしは受け取り、マグに注がれた液体を見る。
とても黒い。夜をそのまま液にしたようなそんな色だ。
口からはく息で湯気を払い一口飲む。
「……苦いな」
顔をしかめながらいうその人に私は笑う。笑ったのが少し気に入らないのかうらめしそうに睨む。
すいませんと謝り、返されたマグカップに砂糖とミルクを入れかき混ぜもう一度渡す。
「苦いのは勘弁だ」「今は甘くしていますよ」
私のその言葉が信じられないのかその人はマグカップを受け取ろうとしない。しょうがない。
その人の前にマグカップを置き、自分の分のコーヒーを入れる。
砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、ふうと冷ましながら一口。
「この森には魔物が出る」
ふと、その人が言った。
「そうなんですか?」
マグカップを両手を温めるように持ちながら私はその人に尋ねる。
「知らないのか?いや、そうか旅人と言っていたな」
その人は私に話してくれた。
この森には狼の魔物が出ると。今夜のような月の明るい晩はとくに、と。
「君はその魔物の格好の餌というわけだ」
「それは恐ろしい」
「だろう?」
「でも」
私は続ける。
「自分がその魔物の餌になるのなら、あなたも同じなのでは?」
「わたしは……」
その人は考えるように言いよどみ。
「……わたしは、魔物には襲われない」
悩みながらわたしはそう言った。
「わたしは、嫌われているようでな」
わたしのその言葉に納得したのだろうか、彼はなるほどとうなずきコーヒーを飲む。
「なら、嫌われているあなたのそばにいれば、自分は襲われないかもしれませんね」
そんなことを彼は言った。
「……そんなことを言うのは、君が初めてだよ」
彼は、怖くないのだろうかそれとも、ただ無知で無謀なだけだろうか。わたしにはわからない。
わたしは目の前に置かれたマグを手に取った。
黒い闇が薄くなったそれを飲む。
「……甘いな」
その味は、自分がまだ幼いころに食べた甘い菓子を思い出させた。
旅をしてどれくらいなのか、どんな出会いがあったのか。どんな景色を見て過ごしたのか。
私はその人に聞かれて話し始めた。
その人はうなずき、質問をして答えた言葉に感心し、私の話しを興味深く聞いていた。
「……君は、怖くなかったのか?」
切りよく話しが終わり。ふとその人は、そう尋ねた。
「いつ襲われるか不安ではなかったのか?」
「噂通りの魔物だったら最初の内に討伐してました」
たき火に薪を足して私は彼にそう答えた。
「知っていたのか」
「ええ。あなたは人の心を持っている」
「それは違う。君を襲わなかっただけで他の人間を襲ったのかもしれないぞ」
「先に調べました。被害を受けた方々の中に死者はいません」
「だが、傷つけた」
「受けた傷のほとんどは日常生活に大きな影響がないものばかりでした」
「近くの村の人間はそんな事忘れている」
「ええ」
近くにある村の人間は、森には狼の魔物がいてそれが不吉な出来事を引き寄せていると信じ切っていた。
だから私は買って出た。私が森を調べ魔物を討伐しようと。
「あなたは誰も殺していない、むしろ森から遠ざけようとしていた。そうですよね?」
たき火の横に座ったままの獣人(けものびと)に私は言う。
「狼男さん」
この旅人はどこまで知っていたのだろうか。
わたしがこの森に住むようになってどれほどの季節が巡ったのだろう。
可能な限り村の人間に会わないように過ごしていたが、運悪く出会ってしまうことがあった。
わざとらしく怖がらせ、時には重傷にならない程度に襲い森から追い払う。
そうしているうちに、森には狼の魔物が出ると噂されるようになった。
わたしにとって平穏になったはずなのに、どうしてかとても寂しかった。
「わたしは人ではない」
赤々と燃えているたき火を眺めわたしは言う。
覚えているのは、幼いころの旅の途中両親とともに野盗に襲われたこと。
自分一人が生き残り、死にかけたとき人狼に出会い、生きるためと無理矢理血を飲まされたこと。
しばらくその人狼とこの森で生活を共にし生きる知恵を覚えたこと。
そして、いつの間にかその人狼はいなくなり一人になったこと。
「もうどれほどの季節を過ごしたのか、わたし自身覚えていない」
ぱちりと火花が小さく飛び散る。
「……殺すなら今だぞ」
わたしは彼にそう言う。油断しきっているから簡単に命を奪えると。
「わたしには、もう生きる事に見いだせるものがない」
その狼男はとても寂しそうにそう言った。
私は彼に新しいコーヒーを注ぐ。
「……聞いていなかったのか」
「私には殺す理由がありません」
「村の人間に依頼されたのだろう」
理由ならそれで十分だと彼は言う。
「確かに依頼されました。明るくなってから村に向かいますよ」
魔物は討伐できたと、私は言うつもりだ。
「それなら早く殺せ」
ゆっくりしている理由がわからないというようにきっぱりと言う。
「私はあなたに生きてほしい」
「言っていることが噛みあってないぞ」
たしかに矛盾している。この矛盾を解くのに、私はむずかしい答えを彼に提示する。
「会ってもらいたい人がいます」
私の誘いに彼は首を横に振る。
「わたしは人ではない。二本の足で立ち言葉を話す獣だ」
「私のいた世界には獣人がいます」
「魔物として、だろう?」
「いいえ」
私は彼に話した。
私はこの世界の人間ではないこと。ここではない別の世界からやってきたと。私のいる世界では獣人も人間の一種族として生活していること。私のいる世界は他の複数の世界と繋がり少しずつ混ざりあっていること。私は世界を渡る旅人の一人だと。
にわかには信じられないのだろう、彼は頭を抱えながら唸っている。
「……正直、どこまで信じればいいのかわからないでいる」
証拠があるのか。彼のもっともな意見に私はコーヒーと砂糖とミルクを見せる。
この世界ではまず見られないコーヒー瓶とスティックシュガーとポーションミルクだ。
「見たことのない文字が書かれていますよね?」
瓶のラベルに指をさし見せる。
「……わたしが字を読めないだけで、君の言うこの世界の文字がこれだという可能性がある」
思ったより疑い深い。
それならばと、地面にこの近くの村の名前をこの世界の文字で書く。
森の近くには看板もあった。この世界の識字率は低くはないはず。
「……読めますよね?」
狼男の彼は地面に書かれた文字を見る。
「……君は嘘つきだ」
鼻で笑い、文字の一つを指さす。
「これはなんだ?見たことがない」
ああ、よかった。引っかかってくれた。
「ええ。そこだけ『左右逆に書きました』」
一文字だけ左右を逆にして書いた。それを指摘したというのはつまり『他の文字は読めた』ということだ。
「信じてもらえましたか?」
「……くやしいが信じよう」
引っかけに気づいた彼は、くやしそうにコーヒーを飲んだ。
空が白み、明るくなり始めてきた。
森を出た私は村に行き魔物を討伐したと報告した。村の人間に感謝され、少しばかりの金と食糧をもらった。
そして森へもう一度入り狼男の彼と合流する。森の外れまで来て狼男の彼は足を止める。
「……本当にわたしは外に出ていいのだろうか」
彼はそう尋ねる。その疑問には答えるべきだろう。
「ある狼男の話しです」
そして私は『依頼主』の話しをする。
「彼はあるとき死にかけている少年を発見しました。このままでは少年は死んでしまう。そう考えた彼は自分の血を少年に無理矢理飲ませることにしました」
少年は狼男として覚醒し一命をとりとめた。その後、彼は少年に生きるための知恵を教えた。それは文字だったり、天候だったり、狼男の力の使い方だったり。
ある日のこと、彼が食糧集めをしていたときだった。
突然、周りの風景がゆがみはじめ立っていられなくなった。
「気づくとそこは彼の知る森ではなかった。塔のように高い建築物にいくつもの鉄の馬車が走る謎の場所」
彼は知らぬ間に世界の裂け目に飲み込まれ、違う世界へと渡ってしまった。
「幸いにも、飛ばされた世界は他の世界への情報が集まりやすい世界でした。情報を集めた彼は依頼を出しました」
自分が元いた世界に血を分けた少年がいる。その少年が今生きているのかどうか、生きていたらこちらの世界に連れていけないだろうかと。
「その世界では人であるなら生きていける権利が保障されています。人として生きているかという条件がありましたが、その少年は無事その条件を達成していました」
私は彼――かつて少年だった狼男――に視線を向ける。
「依頼主である彼はあなたに会いたがっています」
依頼主から聞いた名前を私は口にする。
「ライカさん」
ライカ。忘れかけていたわたしの、名だ。
狼男に覚醒した衝撃で元の名前を思い出せなくなったわたしにあの人が付けた。
あの人が思い出すまでの仮の名前として、わたしに付けた。
あの人は死にかけているわたしを助け、生きるために様々な知恵を教えてくれた。
父と呼んでもいいのかもしれない。そう思ったころに突然いなくなった。
嫌われたのかと思った。見捨てられたのかと思った。目の端が熱くなる。
「あの人が、生きている……」
この気持ちをどう言えばいいのかわたしにはわからない。
「依頼主が我々の世界に来て10年。世界ごとに時間の流れが違うことがありますが、その差は一年前後と言われています」
彼の言う10ねんとはどれくらいなのだろう。わからないがとても長い季節の繰り返しなのはわかる。
わたしは両の目を隠すように手で覆い涙した。
ライカさんは自分の感情が抑えきれないのか、声を抑えるように泣いていた。
育ての親が10年近く彼を想ってくれていた。その感情はとても受け止めきれないだろう。
「……落ち着いたら、私たちの世界に移動しましょう」
頷く彼の背中を優しくさすり私はそう言った。
しばらく待って、ライカさんはようやく落ち着いた。
「……すまない。今、落ち着いた」
涙をふいたライカさんは私を見る。私を見るその両目はまだ赤かったけれどそれは見なかったことにした。
「今から世界の扉を開きます」
胸の内ポケットから小さな鍵を取り出し虚空へと差し込み右へ傾かせる。
ガチャリという音がして空間に切れ目が入り扉が開く。
「では、入りますよ」
私の言葉にうなずき「待ってくれ」あれ?
「どうしました?」
「名前を聞いていない」
ああ、と思い当たる。そういえば名乗っていなかったか。
「私の名前は̩『遊子』と言います」
遊子とは旅人の別の言い方。
「遊子君、か。ありがとう」
私に礼を言うライカさんは本当に人の心を持っている。
「では、今度こそ入りますよ」
離れないように手をつなぎ私とライカさんはこの世界を後にした。
その後の話しを少しだけ。
私たちの世界へと来たライカさんはまず世界間移動による移動酔いの洗礼を受けた。
落ち着いたのち、依頼主である彼の育ての父に会った。
念のために行った検査で彼ら二人に『血のつながり』があるとちゃんと証明された。
ライカさんは育ての父親と一緒にこの世界で暮らしはじめた。
自動車やインターネットなどを当然知らないライカさんには世界の知識を得るために専門の学校へと通っている。
「一つ、目標ができたんだ」
「なんですか?」
以前会ったときにライカさんが話してくれた。
「わたしも旅人になろうと思う。君みたいになれるだろうか?」
そう話したライカさんはとてもまっすぐだった。
「きっとなれますよ」
私のほうはというと旅人を続けている。依頼を受けて人を探したり、物を集めたり。
キャンピング道具をカバンに詰め込み、明日向かう世界に思いをはせる。
どんな出来事があるのだろう、どんな人物に会えるのだろう。
そう考えると楽しみで眠れそうにない。
ベランダの窓を開け夜空を見る。
月明りが世界を照らしていた。
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