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「復讐……ですか?」
「そう、復讐さ。小説なんかに、よくある話でしょ」
三休法師さんは自嘲するように言った。
「僕にはね、愛する妻と生まれたばかりの娘がいたんだ。とても幸せな毎日だった。……それが、ある日突然消えてしまったんだ」
不意に彼は感情を爆発させて、テーブルをドンと叩いた。
「僕が仕事に行っている昼間、マンションに押し入った男によって奪われたんだ!」
熱で浮かされたような目で私を見つめる。
「二人とも嬲り殺しにされたんだ……けれど、そいつは罪に問われなかった、何故だと思う?」
「…………」
「そいつは心の病だったのさ。君も聞いたことがあるだろう? 刑法第39条っていうのを……」
私が何も答えられずにいると彼は条文を諳んじる。
「『1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。』そういう法律だ……しかも、そいつは未成年でもあったんだ。結果的に奴は刑事罰は免れた……」
三休法師さんは、激情を抑え、いつもの醒めた表情に戻る。
「せめて民事でもと争ったが、本人は元より親にも支払い能力はなかった……結局、僕は妻子のために何一つできなかったのさ」
淡々とした目で私を見つめて問う。
「同じ法律で裁けない人間が同じ社会に生きているんだ。おかしいと思わないかい。理不尽だと思わないかい……でも、こういう僕の考え方自体がおかしいってこの世界は言うんだ。だから、僕はみんな狂ってしまえばいいと思ったんだよ」
冷たい目の奥に狂気の火が灯っているのを感じて私はぞくりとした。
「……それが動機なんですね。でも、人を狂わせるなんて、いったいどうやって……」
「それは実のところ、僕にもわからないんだ」
「え、どうして?」
「突然、見ず知らずの人物からメールが届いてね。紋章のデータと使い方が書かれていた。悪い冗談だと最初は思っていたけど、効果は君も知っての通りさ」
「そ、そんな……」
「誰からかなんて、どうでもいいことさ。結果さえ出ればね。そして、今までのことは序章でしかないんだ」
彼が、そう述べたタイミングでスマホが着信を知らせる。
見てみると『ルミルカ』が新着動画で新しい紋章を紹介して待ち受けにするように促していた。
「今度の紋章は前のより強力だ。今まで紋章の影響下にあった人間は確実に狂わすことが出来るだろう。初めて目にする人間だって、心が弱かったり疲れていたりすれば、ひとたまりもないさ。……それにね」
私はその新しい紋章から目が離せないでいた。
「今日の夕方の民放各社のニュースで『ルミルカ』が一連の若者の事件に関係しているという報道が流れることになっているんだ。僕も関係者としてインタヴューを受けてね。そしてその際、この新バージョンの紋章が画面いっぱいに映される予定なんだ」
私にはすでに彼が何を言っているのかさえ、分からなくなっていた。
「つまり、テレビを見た人間はもれなく狂う可能性があるってわけさ。え、見ない人だっているだろうって? 確かにそうだね。でもね、この世界はね、信頼によって成り立っているんだよ」
三休法師さんはゆっくりと私に近づく。
「自動車の運転は皆が交通ルールを守ることを前提にしている。床屋さんは髭を綺麗に剃ってくれる。看護師さんはちゃんと注射を打ってくれる。家で料理してくれる人は包丁で食材しか切らない……この当たり前なことは、相手を信用しているから成立するのさ」
三休法師さんは鞄から大型のサバイバルナイフを取り出す。
「でも突然、人が狂うかもしれない、人を信用しきれない社会で、それは成り立つだろうか……否、無理だ。だから、この世は地獄と化すんだ」
三休法師さんは、私にそのナイフをしっかりと握らせる。
「さあ、これで僕はもう思い残すことはない。本当は『ルミルカ』の中の人、義妹に頼むつもりだったけれど、僕を見つけた御褒美に君に殺されようと思う。でも、安心して欲しい。僕を殺しても君は法律では罰せられないからね……」
私は虚ろな目でナイフを三休法師に向ける。
「ああ、僕はとうとう解放されるんだ。瑠実(るみ)、瑠歌(るか)……遅くなってごめんね。やっと君たちのところに行けるんだ…………」
私は無表情のまま、手に持ったナイフでその憐れな男を彼の求める世界に送り出した。
理性と本能の轍 完
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