理性と本能の轍

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1 「おいおい、ちんたら走ってんじゃねえよ!」  前を走る車のテールランプに柴谷拓也は悪態を吐いた。  先ほどから前を走る軽自動車が法定速度をしっかり守っているのだ。それ自体、法的に間違ってはいないのだが、深夜で家路を急いでいる拓也にとって我慢できない所業に感じた。  しかも道幅が狭く追い越し禁止の標識も見える。  反対車線にもそこそこ車が走っており、無理な追い越しも出来そうにない。 「いいかげんにしろよ……」  カーオーディオから流れる、いつもならご機嫌になれるアイドルが歌うお気に入りの楽曲も卓也のイライラを助長させた。  無意識に車間距離を詰め、プレッシャーをかける。  『あおり運転』という流行(はやり)の単語が一瞬、頭に浮かぶがすぐに打ち消した。 「なっ……」  プレッシャーに耐えかねたのか、突然前を走る車が加速する。   「なんだ、最初からそう走ってりゃいいのに……」  卓也にはそれが明確な敵意に感じ、頭の奥から何か囁き声が聞こえたような気がした。  とたんに、怒りの感情が湧き起こり、熱っぽさと興奮で頭が真っ白になる。    卓也はアクセルを強く踏み込んだ。 2  籍谷耕平は客の髪をカットしながら、こっそりと溜息をついた。  長身でイケメンの耕平は働いているサロンでも人気のある方だが、技術の方は売れっ子の先輩と比べてまだまだと言えた。  その差を埋めるために、営業後の練習や休日のモデハン(モデルハント)も欠かしていない。  おかげで顔には出していないが、かなり疲れが溜まっていた。 (それに、このお客も最悪だ……)  耕平が相手しているのはお直しの客だ。  先週来店したのだが、耕平の施術が気にいらないと直しを要求し来店していた。責任と店の評判に関わるので了承しているが、予約のやり繰りが大変なのと毎回当然のように直しを要求されるので内心腹に据えかねている。 (それにこの人、髪臭いんだよな)  どうせサロンに来るからと髪を洗ってこないか、普段ドライヤーを使って髪を乾かさないかのどちらかだろう。洗濯物と同じで生乾きは雑菌が繁殖して頭皮が匂うのだ。  人気のある耕平は洗髪をアシスタントに頼むことが多いが、この客は耕平に洗ってもらうことに固執していた。 「あの……すみません。カットの直しの方ですが、これでいかがでしょう?」  スマホの待ち受け画面の時間表示でこの後の予約を確認し、いびきをかいて寝ていた客を耕平は申し訳なさそうに起こす。 「……な、何よ。驚いたじゃない」  案の定、眠りを妨げられた客は恥ずかしさもあって激高する。  何で、こんなに言われっ放しで我慢しなきゃいけないのだろう、罵声を浴びせられながら、耕平は手に持った鋏を暗い目でじっと見つめた。
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