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トレンチコートの下は裸だった。
夜の公園。
吾輩は一人、月明かりにその裸体を晒していた。
夕方から降り始めた雪は、足首を超えて積もっていた。
ほんのりと夜闇に光る雪のじゅうたんには、吾輩の足跡だけが一列残っている。
この可憐な雪面も、明日にはわんぱくな子供たちによって、踏み荒らされてしまうのだろう。
だから。
今だけは、吾輩のためだけに……。
トレンチコートの前を、ゆっくり広げていく。
晒されていた肌の面積が広くなる。
トレンチコートが身を離れるのに従い、雪の女王の指先が、そっと吾輩の胸を、肩を、背筋を、ゆっくりと撫でていく。
パサリ。
トレンチコートが、落葉のように雪の上にかぶさった。
吾輩は月の洗礼を受ける。
額から、あご、首筋、肩、二の腕、指先、胸、腹、おしり、股間、太もも、ふくらはぎ、股間。
鏡はない。
けれど、街灯の少ないこの公園で、降り注ぐ月明かりと、反射する雪明りで吾輩の裸体が、ほんのりと光っていることは、分かった。
下からの雪明りで、普段さらされないケツ穴の深淵まで白く照らされている。
唯一照らされていない部分と言えば、風邪をひかないように、二重の靴下で守られた足先と、雪の女王にすっかり怯え、縮こまって、頭から帽子をかぶって出てこようとしないMy beloved son(愛しい我が息子)。
「いつかきっと、その頑強なカブトを脱ぐ日が来る」
だから、今は、このまま。
吾輩の腕の中で、眠りなさい。
吾輩は、両手を使って、そっと、息子を太ももの間に隠してやる。
息子が隠れてしまうと、まるで、女性のようだと、笑ってしまった。
ヒュオオ、と風が吹く。
自然界のフルートが、粉雪を譜面にして、吾輩の裸体に絡みついた。
その姿は、客観的に見れば、羽衣をまとったビーナスのようだった。
いたずらな粉雪に、乳首を撫でられ、吾輩は少し身をすくめる。
空を見上げる。
彼方で燃え盛る星々を、指さす。
シリウス、プロキオン、ペテルギウスの冬の大三角を指でつないでやる。
続いて、寒さで、そそり立った乳首を人差し指で、右乳首、左乳首と押し、最後に出べそを押し込んでやる。
日々の晩酌により、ふっくらと膨らんだ、吾輩のビール腹は、さながら地上にあるもう一つの満月と言っても過言ではないだろう。
ビール腹は、いや、地上で光るもう一つの満月は、叩いてやると小気味の良い音をたてた。
しばらく、自然とのセッションを楽しむ。
合間に挟まる「ぷひゅ、ぷしゅ」という放屁が、合いの手となって場を盛り上げた。
そして、吾輩は、試練に挑む。
今までの行為は、この試練の前の儀式に過ぎない。
恐怖に足がすくむ。
本当に、こんなことをする意味があるのだろうか・
もっと楽な方法があるんじゃないだろうか。
そういった考えがグルグルと頭をめぐる。
けれど、その恐怖に一度膝を屈してしまえば、きっと、吾輩は二度と立ち上がれないだろう。
いや、いっそ立ち上がれない方が良いのではないだろうか。
恐怖に立ち向かうだけが勇気ではない。
恐怖が行き過ぎるまで、頭を下げ続ける。
自らの生活を守るために、世間一般の人たちが当たり前にしていることだ。
そして、それもまた、勇気ではないだろうか。
ふとももの中で、My beloved son(愛しい我が息子)が、心配そうに顔を覗かせた。
その様子に、吾輩は苦笑する。
こんな小さな子供に、心配されるとは。
顔を上げた時、吾輩の顔は、かの有名な革命の乙女、ジャンヌダルクのような覚悟を決めたものとなっていた。
恐怖はある。
けれど、それに打ち勝つ覚悟がある。
迷えば、死ぬ。
だから、せめて、一息に。
「ん゛ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛
!」
叫びの後には、静寂だけが残った。
立ち尽くす吾輩のまわりに、シンシンと雪が降っていた。
雲がいつしか月を隠し、夜の帳は、完全に降りていた。
吾輩の指先には、先ほど、決死の覚悟で抜いた。
乳首の毛が一本。
乳首の毛は、指の力を少し緩めただけで、風に吹かれて空に消えていった。
乳首の毛は、どこへ飛んで行ったのだろうか。
乳首の毛が、飛んでいった先を見る。
乳首の毛。
あの一本の乳首の毛も、風に乗った先で、新しく誰かと出会うのだろうか。
さようなら、乳首の毛。
別離の痛みは、乳首の痛み。
吾輩は、トレンチコートを拾い、再度着ると、遠回りして家に帰った。
翌日、近所で変質者が出たと話題になった。
きっと、それは、妖精のささやかないたずら。
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