4:白い鱗粉

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4:白い鱗粉

 黒板にのこされた白い文字にふれる。物理の方式をあらわしたアルファベット。指先でこすると、チョークの粉がついた。  幼いころ、はじめて蝶をつかまえたときの感覚がよみがえる。指先がうつしとった模様。なぜか残酷なことをした気持ちになって、虫かごから蝶を逃がした。  ひらり、ひらり。  すこし不安定な羽ばたきをくり返しながら、(そら)にきえたアゲハ蝶。それはひどく不完全な光景だった。あざやかな世界が、にわかに色あせた気がした。  指先にのこされた鱗粉。  あとあじの悪いきもち。  (――いやだ)  幼いころのなつかしい記憶にも、それはするりと忍びこんでくる。  どんなにうつくしい思い出も、いまは同じところに辿りついてしまう。  瑠璃(るり)を失ってから、わたしの中には拭うことのできないうしろめたさがある。  ふたたび黒板に書かれたアルファベットをみつめた。  みなれた筆跡。  ふいに衝動がこみあげた。すべてあとかたもなく消してしまいたい。  てのひらが汚れるのもかまわず、ごしごしと黒板をこすった。かすれてうしなわれていくアルファベット。  呆気なく文字がきえる。  瑠璃(るり)には見ることのできない、葵(あおい)の字。わたしは真っ白になったてのひらをみた。  生まれつき不完全だった瑠璃の世界。はかなく、もろく、不安定で、――まるで手折られて咲く華のようないのち。 「何をしているんだ」  とつぜん、つよい力で手首をつかまれた。わたしははっとして目の前にあらわれた教師をみた。子どもじみた悪戯をみやぶられたような恥ずかしさがこみあげる。 「――手をあらってきます」  顔をそむけて立ち去ろうとしても、彼は手をはなさなかった。 「先生、はなしてください」 「サラ……」  誰もいない教室で、彼はいともたやすく教師の仮面をはずした。居たたまれないおもいで顔をあげると、端整なよこがおが白っぽくよごれた黒板をみつめている。 「痛々しいな」  ふっと、予告もなく彼のしせんがこちらに向いた。 「瑠璃が死んでからのおまえは、痛々しいよ」  まるで妹を労わるような、なじみの苦笑がうかぶ。さいきんではめったに見せることのない、幼馴染の仮面。わたしは張りつめていたものをゆるめた。 「素手で僕の字を消して、おまえはいったいなにを訴えているんだ」 「別に意味があったわけじゃない」 「へぇ――、手が真っ白だ」  あのとき、一瞬こみあげた衝動をさとられたようなきがして、わたしは葵の手をふりほどいた。 「ほんとうに何でもないから」 「――僕をあまくみるな」  声はやわらかだが、わたしは立ち去ることができなくなった。ぞくりと、彼から放たれる気迫をかんじる。  葵はもういちどわたしの手をつかまえた。そのまま当たり前のようにてのひらに唇をよせる。 「やめて」  ひきつった訴えに耳をかさず、彼は白くよごれたてのひらに舌を這わせた。 「葵っ」  叫ぶと同時にうごきを封じられる。わたしを支配して、葵はながい睫をふせたまま、白くよごれたてのひらを舐める。衝撃となってつたわる熱。血液があまい毒におかされるように、それは全身をかけめぐる。  いけないとわかっているのに、逃れることができない。  ようやく声をしぼりだす。 「どういうつもり?」 「聞き飽きた台詞だな」 「どうして? どうしてこんなひどいことができるの?」 「ひどい?」  何がと問う葵が、ひどく憎らしい。てのひらを解放しながら、嘲笑うようにわたしをみおろす。彼のうつくしい虹彩に、獲物をいたぶるような悪意がゆらめいていた。このまま葵のえがく世界に踏みこむことはできない。急激に世界が狂っていくのがわかる。  わたしは葵を見つめたまま、危うい狭間で踏みとどまった。 「瑠璃はだれよりも葵を愛していたわ。そして葵も瑠璃を愛していた。だから二人は愛を誓い合って結婚した。誓いをうらぎるようなことはしないで。わたしにさわらないで」  瑠璃とわたしはすべてを半分ずつわけあって生まれたはずのなに、あきらかな違いがあった。びんぼうくじをひいたのは瑠璃。  彼女はもういない。  わたしたちにはおなじだけの時間があたえられなかった。  寝台によこたわりながら、不公平な運命を嘆くこともなく微笑んでいた半身――瑠璃。  いまも女神のように、わたしのなかに在る。 「瑠璃は死んだ。――もういない」  彼の声にはたたきつけるような厳しさがあった。 「そうよ、だから彼女の思い出をけがすようなことはしないで」  葵はふっとわたしをとらえる力をゆるめた。ゆらめいていた悪意は影をひそめ、まるで労わるように、じっとわたしを見つめる。 「瑠璃を大切に思うおまえの気持ちはわかる。だから受け入れがたいことかもしれないが、この際はっきり言わせてもらおう」  心の底から、葵をおそろしいと感じた。耳をふさいで走り去りたい。 「僕は瑠璃を愛してなどいなかった。ただ彼女の夢を叶えてあげただけだ」 「――――……」  うしろめたさの正体。耳鳴りがする。  まるで甲高い悲鳴のように。  これは瑠璃の悲痛な叫び、痛み。伝わってくる。わたしはその場にたおれるように膝をついた。耳をふさいでも、叫ぶような耳鳴りが追いかけてくる。やまない。ぐらりと地面がゆれた。 「更紗」  何かに支えられて世界の重心をとりもどす。わたしは葵にすがりついた。  彼の描く世界はまちがえている。 「瑠璃を否定しないで」 「――それは、できない」  苦しげな声が答えた。恐れるわたしをなぐさめるように、葵の手が背中をさする。発作のような衝撃が過ぎさると、すぐ近くで葵の声が響いた。 「更紗。僕はここにいる。……僕を否定しないでくれ」  それは祈るような声だった。わたしは大きく頭を振る。  葵に誘われて、わたしは瑠璃の築いた世界を壊してしまいそうになる。あたえられなかった彼女が望んだ夢を、うつくしい理想を。 「サラ。僕はおまえを愛している。――だから、瑠璃ではなく、僕を選べ」  葵の声はまよわない。  どこまでも世界を狂わせる。
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