17人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
4:白い鱗粉
黒板にのこされた白い文字にふれる。物理の方式をあらわしたアルファベット。指先でこすると、チョークの粉がついた。
幼いころ、はじめて蝶をつかまえたときの感覚がよみがえる。指先がうつしとった模様。なぜか残酷なことをした気持ちになって、虫かごから蝶を逃がした。
ひらり、ひらり。
すこし不安定な羽ばたきをくり返しながら、天にきえたアゲハ蝶。それはひどく不完全な光景だった。あざやかな世界が、にわかに色あせた気がした。
指先にのこされた鱗粉。
あとあじの悪いきもち。
(――いやだ)
幼いころのなつかしい記憶にも、それはするりと忍びこんでくる。
どんなにうつくしい思い出も、いまは同じところに辿りついてしまう。
瑠璃(るり)を失ってから、わたしの中には拭うことのできないうしろめたさがある。
ふたたび黒板に書かれたアルファベットをみつめた。
みなれた筆跡。
ふいに衝動がこみあげた。すべてあとかたもなく消してしまいたい。
てのひらが汚れるのもかまわず、ごしごしと黒板をこすった。かすれてうしなわれていくアルファベット。
呆気なく文字がきえる。
瑠璃(るり)には見ることのできない、葵(あおい)の字。わたしは真っ白になったてのひらをみた。
生まれつき不完全だった瑠璃の世界。はかなく、もろく、不安定で、――まるで手折られて咲く華のようないのち。
「何をしているんだ」
とつぜん、つよい力で手首をつかまれた。わたしははっとして目の前にあらわれた教師をみた。子どもじみた悪戯をみやぶられたような恥ずかしさがこみあげる。
「――手をあらってきます」
顔をそむけて立ち去ろうとしても、彼は手をはなさなかった。
「先生、はなしてください」
「サラ……」
誰もいない教室で、彼はいともたやすく教師の仮面をはずした。居たたまれないおもいで顔をあげると、端整なよこがおが白っぽくよごれた黒板をみつめている。
「痛々しいな」
ふっと、予告もなく彼のしせんがこちらに向いた。
「瑠璃が死んでからのおまえは、痛々しいよ」
まるで妹を労わるような、なじみの苦笑がうかぶ。さいきんではめったに見せることのない、幼馴染の仮面。わたしは張りつめていたものをゆるめた。
「素手で僕の字を消して、おまえはいったいなにを訴えているんだ」
「別に意味があったわけじゃない」
「へぇ――、手が真っ白だ」
あのとき、一瞬こみあげた衝動をさとられたようなきがして、わたしは葵の手をふりほどいた。
「ほんとうに何でもないから」
「――僕をあまくみるな」
声はやわらかだが、わたしは立ち去ることができなくなった。ぞくりと、彼から放たれる気迫をかんじる。
葵はもういちどわたしの手をつかまえた。そのまま当たり前のようにてのひらに唇をよせる。
「やめて」
ひきつった訴えに耳をかさず、彼は白くよごれたてのひらに舌を這わせた。
「葵っ」
叫ぶと同時にうごきを封じられる。わたしを支配して、葵はながい睫をふせたまま、白くよごれたてのひらを舐める。衝撃となってつたわる熱。血液があまい毒におかされるように、それは全身をかけめぐる。
いけないとわかっているのに、逃れることができない。
ようやく声をしぼりだす。
「どういうつもり?」
「聞き飽きた台詞だな」
「どうして? どうしてこんなひどいことができるの?」
「ひどい?」
何がと問う葵が、ひどく憎らしい。てのひらを解放しながら、嘲笑うようにわたしをみおろす。彼のうつくしい虹彩に、獲物をいたぶるような悪意がゆらめいていた。このまま葵のえがく世界に踏みこむことはできない。急激に世界が狂っていくのがわかる。
わたしは葵を見つめたまま、危うい狭間で踏みとどまった。
「瑠璃はだれよりも葵を愛していたわ。そして葵も瑠璃を愛していた。だから二人は愛を誓い合って結婚した。誓いをうらぎるようなことはしないで。わたしにさわらないで」
瑠璃とわたしはすべてを半分ずつわけあって生まれたはずのなに、あきらかな違いがあった。びんぼうくじをひいたのは瑠璃。
彼女はもういない。
わたしたちにはおなじだけの時間があたえられなかった。
寝台によこたわりながら、不公平な運命を嘆くこともなく微笑んでいた半身――瑠璃。
いまも女神のように、わたしのなかに在る。
「瑠璃は死んだ。――もういない」
彼の声にはたたきつけるような厳しさがあった。
「そうよ、だから彼女の思い出をけがすようなことはしないで」
葵はふっとわたしをとらえる力をゆるめた。ゆらめいていた悪意は影をひそめ、まるで労わるように、じっとわたしを見つめる。
「瑠璃を大切に思うおまえの気持ちはわかる。だから受け入れがたいことかもしれないが、この際はっきり言わせてもらおう」
心の底から、葵をおそろしいと感じた。耳をふさいで走り去りたい。
「僕は瑠璃を愛してなどいなかった。ただ彼女の夢を叶えてあげただけだ」
「――――……」
うしろめたさの正体。耳鳴りがする。
まるで甲高い悲鳴のように。
これは瑠璃の悲痛な叫び、痛み。伝わってくる。わたしはその場にたおれるように膝をついた。耳をふさいでも、叫ぶような耳鳴りが追いかけてくる。やまない。ぐらりと地面がゆれた。
「更紗」
何かに支えられて世界の重心をとりもどす。わたしは葵にすがりついた。
彼の描く世界はまちがえている。
「瑠璃を否定しないで」
「――それは、できない」
苦しげな声が答えた。恐れるわたしをなぐさめるように、葵の手が背中をさする。発作のような衝撃が過ぎさると、すぐ近くで葵の声が響いた。
「更紗。僕はここにいる。……僕を否定しないでくれ」
それは祈るような声だった。わたしは大きく頭を振る。
葵に誘われて、わたしは瑠璃の築いた世界を壊してしまいそうになる。あたえられなかった彼女が望んだ夢を、うつくしい理想を。
「サラ。僕はおまえを愛している。――だから、瑠璃ではなく、僕を選べ」
葵の声はまよわない。
どこまでも世界を狂わせる。
最初のコメントを投稿しよう!