2:理科室の毒

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2:理科室の毒

 硝子で形作られた小さな世界。  理科室。  窓ぎわに作られた台のうえ。さながらオモチャの展覧会のように、ビーカーやフラスコが並んでいる。  雑多におかれた硝子細工のなかから、わたしは試験管をひとつ手にとった。少しだけ水を入れて、放課後のうっとりとした陽射しにかざす。  少しだけ底にたまっている液体が、日の光をあつめて奇麗な黄昏に染まった。  まるで美しい毒薬のように、きらきらとかがやいている。  わたしは試験管をかたむけて、すこしだけ毒を舐めた。  あやしい錯覚に魅せられていると、ふと胸の底から暗い息苦しさがよみがえった。同時に、背後でことりと物音がした。 「サラ、ここにいたのか。帰ろう」  痛々しい面影に呑まれそうになっていたわたしは、はっとして振りむいた。  義兄(あに)(あおい)が、じっとこちらを見つめていた。足音もたてずに歩みよってくる。 「その試験管には、何が入っているんだ」  わたしは中味を捨てるために試験管をかたむけた。液体が零れだすまえに、彼はわたしの手首をつかんだ。 「先生、ただの水よ」 「そんなはずはない」  彼はあざ笑うように決めつけて、奇麗な眼差しでわたしをみた。瞳孔(ひとみ)をふちどる虹彩が、うつくしい色合いで輪をえがいている。  眩暈をかんじた。少しだけ舐めた毒が、まるでほんとうに体を侵しているようだった。 「薬品なんて、勝手に持ちだせないわ」 「僕が云っているのは、そういうことじゃない」  彼はわたしの魅せられていた幻想を見つけだしたかのように、不敵にわらっていた。わたしの手から試験管をとりあげる。まだ底に残っている毒を、暮れていく日の光にかざした。 「僕がこれを飲めば、どうなる?」  わたしは少し迷ってから素直にこたえた。 「――死ぬわ」  彼はふっと優しい笑みをうかべた。ちくりと胸のうらを刺す背徳(うしろめた)さが、痛みをました。葵の笑みは麻酔のように、すべてをごまかしてしまう。  このうえもなく非道で、残酷なくらいに奇麗だった。 わたしはたしかに毒に侵されている。世界がはらはらと音もなく壊れてゆく。 「それが毒なら、死ぬわ」  わたしはもう一度くりかえした。葵は澄んだ眼でじっとこちらを見つめている。  瑠璃が愛した男。  きれいなかおで笑う、うつくしい面影がよみがえる。痛々しいほど儚い。  瑠璃は生まれたその日から、少しずつ毒薬を与えられていたようなものだ。透徹るような白い肌から沁みこんで、毒は細いからだのなかに蓄積されていった。  まいにち、絶えまなく。 「サラ、これはね」  葵は試験管をながめて愉しそうに嗤う。彼は教師であり、瑠璃(あね)の夫だった。 「これは毒薬じゃない」  わたしはうなずいた。 「そうよ、先生。それはただの水」  彼の容貌(かお)からすっと笑みがひいた。舐めた毒は、やはり体のなかをめぐっている。動悸と眩暈。彼の傍にいることが息ぐるしい。 「更紗(さらさ)」  毒。彼の低い囁きが、さらに毒性を高めていく。猛毒だった。 「これは水じゃない、わかっているだろう?」 「――もう、帰る」  うわ言のようにそれだけを呟き、わたしは立ち去ろうとした。一歩をふみだす刹那、嵐のような衝撃があった。呼吸がとまる。たくましい腕に引きとめられ、背が葵の胸にぶつかって行き場を封じられた。わたしは声をあげることもできず、間近にせまる悪魔のように美しい彼の顔を仰いだ。眼があうと、葵は嗤いながら試験管に口をつけた。  かたむいた筒のなかを、透徹った毒がながれていく。彼のきれいな唇から、受け止めきれなかった毒があごをつたい、はらりとしたたった。  こぼれた雫は、のけぞるようにして彼を仰ぐわたしの頬におちてきた。毒はそのまま、つっと唇へながれつく。葵のつめたい指先が、その雫をぬぐうようにわたしの唇に触れた。 「い――」  嫌だという言葉は、注ぎこまれた毒によってかきけされた。くちうつしで盛られた毒。重ねた唇からもあふれでて、あごの輪郭をなぞるように零れる。  葵は毒をのませることに成功すると、わたしを見おろしたまま囁く。 「僕にとっては、――媚薬だった」  大切な秘めごとを明かすようにつぶやき、彼は毒に侵されたわたしをとらえた。  逃げだそうとしてあばれるわたしを、葵は力まかせに支配する。  つよく触れた唇から、ほのかに煙草の味がした。葵のにおい。  背徳と裏切り、罪と咎。吐きそうなほど苦いのに、蜜のようにあまい。  葵の長い指先がそっと動いた。まるでいたわるように涙に触れる。 「わたしは、……葵が憎い」 「――知っているさ」  しのびよる背徳(うしろめた)さを粉々に打ち砕くように、どこかで試験管のわれる音がきこえた。
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