3:檻の部屋

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3:檻の部屋

 瑠璃の部屋はうつくしい檻だった。変わらずに残されたままのベッドに歩み寄ると、瑠璃の作りもののような肌の白さをおもいだす。細い手首は幻のように儚く、指先はしなやかに何かをつなぎとめようとしていた。  わたしは背徳(うしろめた)さに呑まれて、瑠璃の残像を振りはらうように眼をとじた。あえぐように深呼吸をして、非力な瑠璃が囚われていたベッドに横たわってみる。瑠璃の眺めていた世界を同じようにたどってみた。そこには変わることのない光景(かたち)があるだけ。明暗だけが変化を許されていて、天井はじわじわと夕闇に呑まれていく。室内の暗さだけが深くなった。  おっとりとした黄昏は失われて、淡い闇が全てを支配する。  瑠璃はこのうつくしい檻の中でたたかっていたのだろうか。  やりきれない思いに占められると、まるでタイミングを見はからったように物音がする。聞きなれた足音。  悪魔がやってくる。 「サラ、また亡霊と語り合っているのか」  あたりまえのように室内に踏みいり、葵は横たわるわたしを見おろす。 「家宅侵入でうったえるわよ」 「何をいまさら――、好きにすればいい」  余裕の笑みをうかべて、葵は何のためらいもなくベッドに腰かける。幼いころは何の不自然さもかんじなかった行為。一つのベッドを三人で占領して、夜通しトランプをしていたのはどのくらい昔の記憶だろう。 「そういえば、あの時のトランプ……」  うわ言のように、わたしは思い出の中のカードを取りだす。 「Q(クイーン)の顔が瑠璃に似ていた」  世界は薄紫の闇にしずみ、記憶だけが色鮮やかにうかびあがる。黒い影でしかなかった葵が、ゆっくりとこちらを見る気配がした。 「葵は覚えている? ほら、昔よくこのベッドの上を散らかして――」 「子どもの頃の話か。それなら僕もよく覚えている。Q(クイーン)がおまえに似ていると思っていたからね」 「それは」  同じことだと云いかけて、わたしは言葉を呑みこんだ。葵は力なく投げだしているわたしの手にふれた。そっと影がかさなる。  てのひらにふれた熱。 「葵、わたしは瑠璃のかわりにはなれない」  ゆっくりと葵の影がわたしを呑みこむ。横たわるわたしから逃げ場を奪うように、彼はベッドに両手をついてこちらを見おろす。  檻の中が夜に満ちて、全てがあいまいだった。葵はこの不明瞭な世界で、きっと瑠璃の面影をさがしている。 「同じ声、同じ顔、同じ体。――だから、葵が重ねるのは仕方がないと思う。だけどわたしは瑠璃にはなれない」 「もちろん、おまえは更紗だ。瑠璃になどなれるわけがない」 「そうよ、瑠璃にはなれない。だから、もうわたしをからかうのはやめて」  すぐそこに葵の顔がせまっているのに、すべてが影色でみえない。  非力な瑠璃があいした男。  ふっと彼の呼吸が額をくすぐる。 「おまえはどうしても僕を嘘つきにしたいらしいね。……そのどうしようもない思いこみが苛々する」 「どうしようもない思いこみ?」 「そうだよ、……いや、違うな。おまえには呪いがかかっている」  影色のなかに濡れた光がよこぎる。とたんにわたしは葵の眼差しを意識して息苦しくなった。 「どんな呪いが?」 「それを僕に云わせるのか」  すっかり夜に奪われた檻のなかで、葵とわたしの距離は限りなくゼロに等しい。  瑠璃。愛すべき――もうひとりのわたし。  汚れのない命とひきかえにすべてを手に入れた。 「サラ、僕をみろ」 「みているわ」 「みていない。おまえは何もみていない」 「くらくて……、みえない」  ただ檻がある。  それはこの瑠璃のへやなのか、あるいはわたしの中にあるのか。 「みえないのは葵もおなじ」 「僕はみえるさ。どんな闇のなかにあっても、おまえをみつけることができる」 「そうね、葵は瑠璃を見失わない」  ぴりっと肌がひりつくような緊張がうまれた。葵が闇の向こうでこちらを睨んでいる。 「――またか。おまえには僕の言葉がとどかない」  低い声のなかには、苛立たしさを呑みこんだ凄みがあった。 「更紗、僕がみているのはおまえだ」 「葵はわたしをみて瑠璃を思――っ」  かみつくようなキスがわたしから言葉をうばう。ベッドがかすかにきしむ。  まるで小さな悲鳴。瑠璃が叫んでいる。ぞっとした。 「やめて」  瑠璃の横たわっていた場所で、この上もなく許されない行為。  暗い檻のなか。どこかで瑠璃がみている。  がたがたと体中がふるえた。 「更紗……」  葵の力がゆるむ。それでも逃げ出すことができない。ただどうしようもなく震えているだけだった。 「おまえは、僕を憎いと云うが――、僕は瑠璃が」 「やめて」 「瑠璃は――」 「やめて、お願い」  何も聞こえない。ひたすら胎児のように体を小さくして耳をふさぐ。今にも瑠璃の声が聞こえてきそうだった。 「更紗。僕はおまえにかけられた呪いをとく鍵をもっている」  さっきまでの激しさが嘘のように、葵の声が凪いでいる。わたしはゆっくりと目の前の影をみた。背をむけてベッドに座っているのか声が遠い。  過ぎ去った嵐に安堵するように、わたしは大きく息をはきだした。ベッドから身を起こす。 「わたしは呪いなんてかけられていないわ」  葵はわたしをみることもなく、独り言のように続けた。 「呪いがとければおまえはきっと心をひらくだろう。だが、それでは意味がない」 「何を云っているのか、わからない」  ベッドから立ち上がり、葵はようやくこちらをみた。表情は闇に隠されている。それでも彼が微笑んでいるのがわかった。 「おまえには僕の言葉が届かない。わかっていても、僕は呪いに囚われている更紗が欲しいんだよ。そのために必要なら、おまえを傷つけることも汚すこともためらわない」  檻のなかに現れたのは、やはり悪魔だった。  残酷で非道なことを語りながら、信じられないほどうつくしく笑う。 「更紗、僕は優しくはない」 「知っているわ」  葵は小さく笑いながら、檻のなかから姿を消した。  もう義兄でも教師でもなく、幼馴染でもない。  葵は形作られた世界を壊して、ほんとうに悪魔になることを選んだ。  そしてわたしはいつか、彼とともに魔道に堕ちてしまうのかもしれない。
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