1:屋上の眩暈

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1:屋上の眩暈

 校舎の屋上からみえる放課後の風景は、すきな色彩にみちている。朝の蒼さも昼の強さも影をひそめ、オレンジの絵の具をこぼしてなじませたように、世界にあわい皮膜がかかる。  ながい髪を風に梳かれながら、わたしはぼんやりと暮れなずむ校庭をながめていた。  真昼は陽射しのつよすぎる晩夏も、このくらいの時刻になると過ごしやすい。わたしは知らずにふうっと胸の底から呼吸をしていた。 「なんだ、おまえもここにいたのか」  突然、風にまぎれてしまいそうな低い声が、ゆるい陽射しに包まれていた世界をゆるがす。途端にリラックスしていたわたしの世界は張りつめてしまった。ふりかえると、ぷかぷかと紫煙を吐きだしながら、のろのろと義理(あに)が歩みよってくる。 「先生こそ、何しにきたの?」  ゆらいだ世界を知られないように、わたしは仕方なく問いかけた。義兄は転落防止の金網に背中をあずけてこちらをみる。いまどき珍しい白衣を律儀にまとい、(かみさま)が愛でるほどの美貌に軽薄な笑みをうかべる。  この年上の義兄が、わたしは苦手だ。  彼のまとう白衣にゆるい陽射しが反射して、痛みをかんじた。 「僕に興味があるのか」  彼の言葉にシンクロして、ゆるい陽射しがさっきよりも陰った気がする。居心地のよかった色彩がすわりの悪いものになった。 「先生のそういう態度がつかれるの」  わたしは素直にうちあけて、すっかり変質してしまった校舎の屋上から立ち去ろうとした。 「待てよ、サラ」  足もとから描かれたながい影は、背後の彼に向かって伸びているのだろう。彼の声はまるでわたしの影を縫いとめるかのように明瞭だった。けれどわたしは聞こえないふりをして反対側へと歩いてゆく。 「更紗(さらさ)」  凛と世界をゆるがす声。うつくしい響きとなって拒むわたしを追いかけてくる。言葉にならない何かが体を侵し、わたしはゼンマイ仕掛けの人形のように、ぎこちなく歩みをとめた。翳りの増す色彩のなかで、彼とわたしは世界に二人きりで取り残されたように心許ない。  放課後の屋上にきずかれた頼りない世界を、彼はさらに曖昧な問いかけで壊してゆく。わたしはゆらぐ世界のなかで、消えてしまいそうな境界を見据えていた。他愛ない生徒のふりをしてふりかえると、彼は夕日に照らされて妖しいほどうつくしい姿をしていた。 「ねぇ、サラ。もし僕がここから飛びおりたら、おまえはどうする?」 「――救急車を呼ぶわ」  失いそうになった言葉をひろいあつめて、あたりまえの答えを形にした。彼はそれが気に入らなかったようで、言葉をかさねた。 「泣いてはくれないのか。僕は更紗の心がうごくなら、ためしてみてもいい」  すっかり変質した世界で、彼は支配者になりつつあった。微熱におかされたように、わたしの鼓動がリズムを変えた。 「飛びおりたいなら、どうぞ。好きにすれば?」  彼の君臨する世界へ堕ちてゆきそうになるのを踏みとどまり、わたしはくるりと背を向けた。 「帰るわ」 「じゃあ、僕は好きにしてみよう」  がしゃり。  唐突な行いが、わたしをさそう。今度こそ立ち去ろうとしていたわたしを、破天荒なおこないひとつで、彼はいともたやすくさらう。 「(あおい)っ、何をしているの」  わたしは金網をよじ登っている彼の足にすがりついた。彼はすぐに白衣をひるがえしながら、わたしの目の前にひらりと着地する。完全にリズムの狂った世界で、わたしは呆然と彼を仰いだ。葵はなんの背徳(うしろめた)さもない様子で、じっとこちらを見ている。  ここは彼の世界だ。触れる眼差しが苦しい。迷いこんでしまった。 「な、何を考えているの。瑠璃(るり)のあとを追うつもり?」  彼は優しげに、にこりと笑う。  しん、と静まりかえった屋上に、煙草の匂いがふわりと広がった。大人びた微笑のなかに、彼は少年のような無邪気さを秘めている。残酷なほど素直に手をのばし、彼はわたしに触れた。 「やっと、僕をみてくれたね」  わたしの顎をつかむ指先からも、紫煙の残り香がただよってくる。掌から与えられる熱が、凍った背徳(うしろめた)さをとかす。葵の世界には、いつも葵だけがあった。  全ての色彩が夕闇にしずむ。彼のまとう痛いほどの白さは失われた。闇に染められた葵は、悪魔のように美しく嗤う。そして非道だった。 「僕をさけても無駄だよ。こうなることは決まっているのに」 「意味がわからないわ」 「ふうん。だけど、結局こうして僕の手に堕ちてきた」  校舎の屋上で、必死に秩序をまもろうとするわたしの世界を、葵は容赦なく叩きこわしてゆく。彼はためらうことを知らない。わたしの身体をひきよせ、折れそうなほど強く抱きしめた。 「どういうつもり? それに、ここは学校よ」 「だから何だ。どうせ家では義兄だからと云うだろう?」  唇をなぞる指先が熱い。世界の境界が曖昧になりつつある。葵の世界で、わたしは彼の望むものになってしまうのだろうか。ぐらりと眩暈がした。わたしは世界を取りもどそうとして顔を背ける。 「先生、はなして。こういうのは苦手なの」 「こういうの?」  ふっと嘲るように笑い、彼は「手遅れだな」と呟く。硝子玉に等しい光沢をうつす瞳には、濃紺のインクを次々とにじませたような奇麗な濃淡があった。 「サラ、もういちど僕のなまえを呼んでごらん」 「いや」  彼はわたしをだきしめる腕に力をこめて追いつめる。まっすぐに落ちかかる細い前髪が、わたしの頬をするりとくすぐった。 「はなして」 「じゃあ、僕のなまえを呼んで」  くりひろげられた彼の世界はくるしい。わたしはたえきれず「葵」とつぶやいた。まるで呪いをとく呪文のように、ふっと体をしばる力がゆるんだ。 「今日のところは、これで許してやろう」  葵はあっけなくわたしを解放した。端正な顔には、まるでオモチャを弄ぶような無邪気さがあった。世界は激しくうつりかわり、日没のあとの闇に支配されていた。彼は優しげな微笑みはそのままに、世界の支配者が誰であるのかをたしかめる。 「更紗、今日のことを、また冗談だと受け流すならそれでもいい。だけど、僕はあきらめるつもりはない」  取り戻しつつあった世界が、ふたたび彼の支配にもどった。頑なに秘めていたわたしの世界をゆさぶる。耳のうらがわで、何かが壊れてゆく音がきこえる。  葵は「じゃあな」と告げて、屋上から姿を消した。すっかり色彩を失った夜のなかで、わたしはたちつくす。  世界が壊れる。これからは見たこともない恐ろしい色で、胸の裡が彩られていくのだ。日没前の光景を取り戻すことができないように、わたしがこれまでの世界を取り戻すことは、もうできない。  病を患うことに似た、胸のうらの痛みが増した。にがみと甘さが並び立つような、矛盾した痛みがひろがっていく。  葵のきずいた世界にとじこめられて、わたしは何か違ったものになっていくのだろうか。  目をそむけていた、硝子細工のように脆い世界。(くるしみ)がきざまれた世界で、わたしは狂っていく。  きっと、葵の望むままに。  人影のない空っぽの屋上で、わたしはそんな痛々しい予感におかされていた。
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