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手元に視線を落として、意味もなくペットボトルを眺める。
ふと、このまま別れていいのだろうか、と思った。
エヴァンとは今日しか会えない。もしかしたら今後一生会えないかもしれない。あやふやなまま別れて、以前のように楽しく通話できる自信はない。心の隅に罪悪感が滲んでしまうだろう。
なにより、友人という関係を壊すかもしれないと思いながらも、勇気を出したエヴァンに対して、失礼だ。
謙吾は息を吸ってエヴァンを見上げた。
「あのさ」
言葉を紡ごうとした唇に、長い人差し指が当てられた。謙吾はびっくりして動きを止める。
まるでそれ以上なにも言うな、というように、エヴァンの人差し指が謙吾の唇に触れている。
「ケン、なにも気にしなくていい」
そっと囁いたエヴァンは、艶やかに微笑んだ。じわっと謙吾の耳に赤色が広がる。
結局その日は返事をせずにエヴァンと別れた。
何も気にしなくていい、と言ってくれたが、謙吾の中にもやもやとしたものが残った。
***
「でさ、昨日みた映画のエヴァンがかっこよくて」
近くから聞こえた声に、動きを止めた。
授業前の教室は学生の声で溢れている。後ろの席の女子学生の声は、聞かないようにしても無理やり耳の中に入ってきた。
「エヴァンかっこいいよね。あの爽やかさが好き」
「だよね。それでいてラブシーンは色気がすごくて、そのギャップにやられたわ」
私も、と高い声が同意する。
友人を褒められて少し嬉しい気持ちになる。やっぱりエヴァンは人気だよな、と誇らしさもあった。
だが、それ以上に気まずさを感じてしまう。
俺はエヴァンに良い返事をできなかった。それに、あやふやなまま離れてしまった。
罪悪感が膨らんで、彼女たちがエヴァンの話をすればするほど、勝手に居心地が悪くなってしまう。
先日の記憶がよみがえる。
風に揺れる金髪、灰色の瞳を縁どる金の睫毛、「好きだ、ケン」と言った柔らかな声。
「……っ」
顔と耳が熱くなった。きっと赤くなっている。
謙吾はそれを見られないように、机に突っ伏した。
電話がかかってきたのは夜の八時だった。
エヴァンという文字が画面に表示されている。いつもならすぐに出るのに、少し躊躇する。
「……はい」
「ケン、声が聞きたかった」
電話で初めて聞くような甘ったるい声に、初めて言われた言葉。胸に衝撃が走る。
「大学はどうだった?」
「い、いつも通りだよ。エヴァンは今起きたの?」
「ああ。起きて一番にケンの声が聞きたくて、電話をかけてしまった」
「そ、そっか。おはよう」
「おはよう。今日もケンと話せて幸せだ」
今までも、「ケンと話していると楽しすぎて時間を忘れる」とか、「また話したい」とかは言われていたが、こんなに恋人に言うような言葉をもらったのは初めてだ。
電話の向こうで爽やかに微笑んでるエヴァンを想像して、胸が詰まった。
「そっ、そういえば今日、大学で女子がエヴァンのことを話してたよ」
「俺のことを?」
「うん。かっこいいって」
ふと、女子学生の声がよみがえる。「ラブシーンは色気がすごくて」と言っていた。
いま、電話の向こうで話しているエヴァンは、そんなシーンを撮ったことなんて微塵も感じさせない。けれど謙吾の頭に、相手役とキスをするエヴァンの映像が流れて、喉に何かが詰まった。
想像でしかないのに、喉から胸にかけて重苦しいもやもやが漂う。
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