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百席ほどの狭い劇場内には、他の客がポツポツといるがかなり人が少ない。前に誰も座っていないので、映画部で貸し切っている気分だ。
部長お勧めの古いホラー映画が始まった。CG技術が発達していない年代に撮られた映画で、フランス人形のジュリアに凶悪な悪魔が取り付き、寄宿学校の少女たちが次々と呪われていく話だ。
音楽といい、レトロチックな映像といい、生々しい恐ろしさが伝わってきてなかなか怖い作品に仕上がっている。
ともすれば、座席の後ろからフランス人形のジュリアの手が伸びてくるような錯覚が起き、密かに光季は恐怖に震えた。
それにしてもさっきから何かが変だ。
モスキート音のような不快な音が耳の奥で鳴り響いている。
はじめは映画の効果音かと思っていたが、どうにも違う。
平穏な学校生活を描いたシーンでもモスキート音が消えない。
ちらりと他の人を伺う。
隣に座っている京弥も、彼の左側に座ってさり気なく京弥の腕にひっついている由香里も、普通に映画を鑑賞している。
音は聞こえていなさそうだ。どうやら自分にだけ聞こえているようだ。
音が頭に響き始めて、軽い眩暈がした。
暫く目を閉じていると眩暈が収まった。同時に妙な音も消えている。
ほっとして顔を上げた光季の目に、妙なものがうつった。
悪趣味なホラー映画が映し出されるスクリーンに向かって、漆黒の緞帳から手が伸びているのだ。
ぬるりとした感触がしそうな、だぶついた白い手だ。巨大な芋虫みたいにも見えるが、五本の指があるのでやっぱり手だ。
ぎょっとして見ていると、顔なのか、なんなのか解らない、目も鼻も口もない白い楕円形のものが手の横に現れた。
やがて、白い楕円に爪痕のようなものが二つ浮かんだ。
爪痕がじわじわと開いていく。
白い楕円に横たわった卵色の半月の中では、いくつもの黒い瞳のようなものがぎょろぎょろと動いた。
寄生虫のような奇妙な目だった。
黒い球の一つと目があった瞬間、頭の中に『みつけた』という機械音に似た声が響いた。
さっきのモスキート音に似た声だった。
白いものがずるりとスクリーンの裏から全身を現し、こちらに向かってきた。
「お、おい、あれ―…」
光季は白い物体を指さしながら口をパクパクさせる。
「どうしたました、水瀬先輩」
不思議そうに首を傾げる京弥に、光季は軽い絶望を覚えた。
おれ以外誰も、あれが見えていないのか。
どうやら、あれは妖怪か幽霊の類のようだ。
放っておいて無視しても大丈夫か。
いや、もしあいつに飛びつかれたら突然の心臓発作や窒息死や圧死などの、原因不明の死を遂げて世間を賑わせることになるかもしれない。
「おれ、トイレ行ってくる」
小声で京弥に告げると、狭い座席の間を小走りで逃げ出した。白い物体は、スクリーンからまっすぐこちらに向かって這いずってくる。
やっぱり、狙われているのは自分のようだ。
ダックスフンドみたいな短い手足が無数に生えた、巨大な芋虫のような白い肉塊がボテボテと這って追いかけてきた。
ベトベトという不快な足音が後をついてくる。
劇場内から飛び出すと、薄暗い廊下に出た。窓をしきりに雨が叩いている。不気味な雰囲気だ。映画館の廊下はコの字型になっている。
こっちの奥は行き止まりだ。
雨音の響く廊下を走り、ソファが配置されたロビーを通り、映画館入り口付近にあるチケットや飲食物、グッズ販売所の前の老爺の前を通りすぎて走る。
幸か不幸か、老爺はガラスケースのカウンターの向こうに座って舟をこいでいて、館内を走っていることを咎められなかった。
何処に逃げようか。いっそ、外に逃げた方が安全だろうか。
そう考えたが、入り口のガラス戸の向こうを見てやめた。
まるで光季が外に逃げ出すのを阻止するように、大雨が降っていたのだ。雷まで轟いている。最低の天気だ。
しょうがなく、廊下の隅にあるトイレに逃げ込んだ。
混乱しながらもちゃんと男子トイレに入った。もしも女子トイレに逃げ込んでいたら、鉢合わせた他の客に変態だと訴えられていたかもしれない。
男子トイレに逃げ込んだのは英断だ。
四つある個室の一番奥に駆け込み、口を手で覆う。
恐怖と疾走で乱れた息を顰めて気配を消す。
それが功を奏したらしく、足音はあっさりと通り過ぎていった。
だけど、まだ安心はできない。今度はここをいつどうやって出るかに悩まされた。
ドアを開けた瞬間目の前にあの白い化け物が居る、なんて事態は避けたい。
もうすぐ上演が終わることをスマホで確認しながら、どうしたものか考えていた。
上演が終わってみんなが出てくるまでここで時間を潰そうか。
それとも、思い切ってトイレから出るか。
考えていると、過ぎ去ったはずの足音が戻ってきた。
嘘だろ、勘弁してくれよ。光季は内心舌打ちを漏らした。
ぎぃぃ、ばたん。ぎぃぃ、ばたん。
雨音だけが響く薄暗いトイレに、繰り返し、ドアが開いたり閉じたりする音が聞こえる。
まるでこちらにわざと音を聞かせていたぶっているように、ゆっくり、ゆっくりとドアが開閉される。
自分が篭る個室のドアは次だ。ドアが開いたら、体当たりをして逃げよう。
そう決心したがドアはいっこうに開かない。
途中で飽きてやめたのだろうか。光季はゆっくり顔を上げた。
光季の白皙の頬が青くなる。無数の瞳がじっと自分を見下ろしていたのだ。
「みぃぃつけたぁぁっ」
にぱっと真っ赤な口を開いて化け物が嗤った。
数えきれないほどある、触手じみた蠢く手が伸びてくる。
逃げなくては。
ドアノブを捻って飛び出そうとするが、ドアは開かない。化け物がドアに二つ折りになってぶらさがっているようだ。
無数の手が腕に、顔に、首に触れた。
不潔感のあるペタリと湿った、ぶよぶよした柔らかな手。やっぱり芋虫みたいだ。
大嫌いな芋虫の感触と、気色悪い瞳が無数にある目に見られ、全身から血の気がさっと引いていった。
このまま失神してしまいたいと思うが、瞬きさえもできずに目を見開いたまま、光季は白い塊の化け物を見ていた。
「う……っ、くっ」
首に絡みついた手に力が篭る。息が吸えない。
苦しさに藻掻き、気色悪い手を引きはがそうとするが、見た目に反して相手の力は強くてびくともしない。
このままじゃ絞殺される。
映画館で男子中学生が謎の窒息死。
嫌な新聞の見出しが思い浮かんだ。
「水瀬先輩、いますか?」
死を覚悟しかけた時、バンと乱暴に男子トイレの扉が開く音がした。
天井の蛍光灯が輝いた。京弥の声が聞こえる。
大人びて落ち着いた低い声と明るい光にほっとした瞬間、空気が肺に入ってきて息ができた。
酸素を取り込むと同時に、首や腕に絡みついていた不快な手が消えていた。
化け物はもう見当たらない。
光季はへなへなとフタを締めたままの便座に座り込んだ。
「先輩、大丈夫ですか?気分でも悪いんですか?」
光季を見つけた京弥が、小さく眉根を寄せる。
ぽかんと口を開いて座り込んでいた光季ははっと我に返り、立ち上がって、八重歯を見せていつもの余裕めいた笑みを浮かべた。
「大丈夫、なんでもねーよ」
冷たいジュースを飲んで腹を壊したとでも言い訳すればよかったかもしれないが、映画館でトイレに篭る男と汚名を着せられるのが嫌だったのでやめた。
眉間に皺を寄せる京弥の肩をポンと叩く。
「迎えにきてくれてさんきゅ、京弥」
「いえ。もうすぐエンディングロールです。ポップコーン、まだ少し残ってますよ」
「おまえにやるよ」
気持ちをリセットするという意味でもいちおう手を洗い、光季は京弥と一緒に男子トイレからでた。
あの奇妙な白い塊の生き物の姿は、どこにもない。
店主の老爺は相変わらず座ったまま転寝をしていた。映画館の外はいつの間にか晴れていた。ガラスの扉から光が差し込んでいる。
京弥がもしも来てくれていなかったら、自分はどうなっていただろう。考えると少しゾッとした。
氷がすべて溶けてすっかり薄くなったレモンスカッシュを飲み干し、エンディングロールを見終わってから光季は京弥と並んで映画館を出た。
外は湿度こそあったが、やっぱり晴れていた。
さっき、白い化け物に追われて見た時は激しい雷雨だったはずだが、地面は濡れていない。
「天気、曇り空から持ち直したみたいですね。雨に降られずに済んでよかったです」
「ああ……、そうだな」
京弥の言葉に答えながら、光季は一人片眉を下げた。
雨は、降っていなかったのだろうか。
不思議を通り越してもはや不気味だった。足早に映画館を離れる。
なんとなく振り返って見た映画館は、おどろおどろしい雰囲気を纏っていた。古
ぼけた映画館の建物から、あの瞳が沢山ある白い化け物が覗いていて、こちらを見て赤い口でにぱりと嗤ったような気がして、首筋が冷えた。
数日前の奇怪な子供の化け物も、鬼の首も、瞳が沢山ある白い化け物も、やっぱり見間違いなんかじゃない。
少なくとも、光季の前では実在していた。
この町には怪異の箱があるに違いない。
やっぱり、この町はちょっと可笑しい。
少なくとも、この映画館には二度と足を運ばないでおこう。
光季はそう心に誓い、映画館が完全に見えなくなる場所まで急ぎ足で歩いた。
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