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私は長い間、働いて生きてきた。 村の野良仕事や、川に洗濯に行ったり、薪割りをしたりと、ありとあらゆる仕事をして生きてきた。 昔、川で洗濯をしていたら、向こうの方から大きな桃が流れてきたので捕まえて割ってみたら男の子が中に入っていた。 お爺さんとのその子を育てたら、いつの間にか引きこもりになった挙句、友達がいないから犬やキジや猿に話しかけて喜ぶ子になった。 医師からはHSP(Highly Sensitive Person)だと診断され、生まれつき刺激に対して敏感な性質で、人や色んなものの刺激を過敏に受け取ってしまう傾向があると言われた。 生後から幼少にかけて、説明のつかない体験をしていて、通常より五感が鋭く、精密な中枢神経を持っているらしい。 確かに男の子は巨大な桃の中から生まれてきた捨て子という、通常では説明のつかない体験を生まれながらにしている。 だが、HSPは病気や障害ではなく、心理学上の概念でしかないと医師には言われた。 精神医学上の概念ですらないらしい。 だから人間同士のコミュニケーションは疲れやすいので、言葉で交流する必要のない動物とは付き合い安くて良いと思った。 実際、男の子はHSPの特質を活かし、動物たちの微妙な変化を敏感に感じ取って、それはそれは行き届いた世話をしていたから、これは最適な交流だと思った。 しかし、いつの間にか、男の子は動物たちに愚痴ばかりを言うようになり、吉備団子を勝手に家から持ち出しては、それを仲の良い犬、キジ、猿に与えて、挙句、動物たちと自分は全く同じ考えだと言い出すようになった。 その同じ考えとは、海の向こうに見える島には悪い鬼がいるというものだった。 あの島は無人島で有名だと教えても、男の子は信じなかった。 そして結局、犬、キジ、猿を連れて、男の子は無人島に鬼退治に行くと告げて、数年前に消えてしまった。 それ以来、会っていない。 今どうしているのか、全くわからない。 その数年の間に、私たちの生活にも変化が訪れ、元気だったお爺さんが急に病気になり、入院した。 お爺さんの病状はどんどん悪くなり、都心の大病院に入院することになって、私も付き添うために村の家を出て、大病院の近くにアパートを借りた。 村での生活しかしたことがなかったので、都会生活には中々慣れなかったが、毎日病院に通い、お爺さんに付き添った。 お爺さんと知り合ったのは、いつ頃だったか、もう随分昔の話だ。 確か私が地主の家の下働きをしていた頃、学校を出たばかりのお爺さんとひょんなことから知り合った。 当時のお爺さんはニキビ顔の初々しい少年という感じで、無口で照れ屋だったが、仕事は真面目に黙々とやるし、誠実な人柄に好感を持った。 でも幾ら好感をこちらが持っても私なんかに振り向いてくれるわけがないと思っていたのだが、お爺さんとは不思議と村の中でよく顔を合わせる機会があり、いつの間にか恋仲になり、ある時お爺さんに、嫁になってくれと言われて、すぐに夫婦になった。 その頃、村にはこの世の者とも思えないくらい美しい女子(おなご)がいて、村の男という男は、皆その超絶的に美しい女子を嫁にすることを競っていたから、私のような不細工で地味な女子の結婚なんて、誰の眼中にもなかった。 おまけに、優しいお爺さんに比して、姑に当たるお爺さんの母は、何かと厳しく、家事から稲刈りから薪割りその他諸処モロモロの雑事を全て押し付けてきて、何かあるとすぐに小言や説教、というより単なる罵詈雑言を浴びせてくるような人だった。 私とその超絶的に美しい女子は、同じ場所で生まれたのだが、その後の人生は随分違っていた。 ある日大病院へ朝から行くと、担当の医師が話があると告げた。 覚悟はしていたが、話というのは当然お爺さんのことで、医師からはもう長くないと言われた。 わかっていたことだが、はっきりそう告げられると、やはり辛かった。 病室に行っても中々お爺さんの顔が見れなかった。 花瓶の水を変え、リンゴの皮を剥いていた時、不意に声がした。 「帰らなくていいのか?」 お爺さんの声だった。 「え?」 「帰らなくていいのか?」 「村の家にかい?いいのよ、近くにアパートを借りてるから」 「帰らなくていいのか?」 「いいのよ。近いから毎日アパートから通えるから」 「…。帰る時は行ってくれよ」 意味がわからなかったが、きっと私が村の家を恋しがっていると気にしているのだろうと思い、「わかったよ」と言っておいた。 村の家になんか、別に帰りたくない。 お爺さんのいない家になんて。 私は一生お爺さんのそばで生きていくのだから。 それが私の一番の幸せなのだから。 その日の夜は満月だった。 満月を眺めていると、全てのモヤモヤが忘れられた。 月の光が差し込んできて、月明かりが出来た。 月明かりの下にいると、途轍もない安心感に包まれた。 お爺さんにも満月を見せてあげようと思ったが、すでに熟睡していたので、私は一人、月明かりの下の安寧に浸ることにした。 もう何処にも行きたくなかった。 ずっと このまま
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