この、確かな声を(8)【完結】

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この、確かな声を(8)【完結】

『行ってこい』  澪から返ってきたのはその一言だけだった。  ――人に揉まれるため、心を鍛えるために、街の高校に行きます。ただの人間になった今、いったいどこまでやれるのか。まだ怖いけど、僕は澪さまに相応しい男になりたいから、自分を試したいんです。澪さまは、僕のこと待っててくれますか――。  尋ねられたら話したいことはたくさんあったけれど、澪はそうはしなかった。だから、聖も一言だけ。 『また、すぐに会いに来ます』  澪が頷く。別れの挨拶は、それだけだった。 ◆◆◆  それから二ヶ月。五月の連休に、聖は村を久々に訪れた。  今は嘉章が一人で住む部屋は何もかもそのままで懐かしかったが、自分がいない分だけ広く感じられた。押し入れには、三月まで聖が使っていた布団が残されていた。  聖が街へ戻るために村を出るとき、笑いながら「いつでも戻ってきていいぞ」と言った嘉章の目が潤んでいたのを思い出す。  そして今朝、聖は朝早く、嘉章のもとを後にした。  今日は、一月ぶりに澪に会うのだ。  街からはこの村へは、そう頻繁には通えない。一回ごとの機会を大切にしなくては、と聖は気合いを入れて真顔の練習を繰り返す。そうでもしなくては、緩みきった顔で澪の前に出ることになってしまうからだ。どんなに頑張っても、澪に会ったとたん顔の筋肉が弛緩するのは目に見えているのだけれど。  小中学校の合同校舎前を通りかかると、一番桜はとうに散り、花の後からは爽やかな色の若葉が芽吹いていた。桜は桜でも、八重桜や芝桜が見頃を迎える季節。  春というには遅いし、初夏というには少し早い、出歩くのにはちょうどいい時期だった。  ――澪さまにも、見せてあげたいな。  花の香りを嗅ぎながら、聖は思った。  まさか澪に携帯電話を持たせるわけにも行かず、今回の訪問は彼女にとっては完全に不意打ちだったはず――なのだが、約一ヶ月ぶりに見る澪は、平然とこちらへ歩いてきた。特に嬉しそうだとか、弾んだ足取りなどという可愛らしさはない。  強いていえば、その歩みがいつもよりも早いような、と聖は思った。 「変わりはないか」 「はい。ご無沙汰していました」 「……む?」  聖を見上げた澪が、大きなまばたきを二、三度繰り返す。彼女は、まるで眩しいものでも見るように目を眇めていた。 「また、伸びたか?」 「そうみたいですね」 「お主、何だかいい男になりそうじゃのう」 「……褒められてるんですか」 「他にどう聞こえる」  ここ最近で、聖の背はまるで枷が外れたかのように大きくなっていた。秋には澪より少し大きいくらいだったのが、ここ半年で頭一つ分くらいの差に広がっている。  単に、成長期、という言葉だけでは片付けることができない変化だった。  急成長の始まりは、力を失った時期とちょうど一致する。そのため、聞き耳を維持するために結構な体力を消費していたのかもしれないと、聖は勝手に納得していた。どうしてこんなに牛乳を飲んでいるのに背が伸びないのだろうと、聖は不満に常々思っていたのだ。力がなくなった今、その分が成長に使われているのではないだろうか。  一方の澪は、何やらぶつぶつと文句を言っている。 「しかしなあ。儂のこの姿では、もう仰がねば顔も見えぬではないか」  ザッと音がして、砂埃が舞う。澪は聖を見上げたまま、いじけた子供のような仕草で地面を蹴っていた。聖の顔はさらに緩む。 「僕はこのくらい伸びて、満足ですよ。ずっと、澪さまより大きくなりたいって思っていたので」 「そうであったか? ……そうか、ではまたの機会にしようかの」 「何をです?」 「儂は変幻自在じゃぞ?」  澪は、ふふん、と妙な笑い声を漏らしたが、企みの中身までは教えてくれなかった。気にはなったが、突っ込んで聞いたところでやはり澪は笑うだろう。  一呼吸おいて、聖は今日の本題を切り出した。 「よかったら、一緒に山を降りてみませんか? 今が盛りの花が結構あるので、お見せしたいんです」  聖の力を得て以来、澪はこの山の外にも出られるようになっていた。聖は、この休みの間、澪とできるだけ村を歩きたいと張り切って帰ってきたのだ。  澪は何かを考えるかのように空中を睨んでいたが、やにわに「おお!」と声を上げた。 「思い出した、思い出した。それは『でーと』じゃな」 「まあ、だいたいそうです」 「お主と並んで歩いたりするのだな」 「できれば」  恥ずかしいことをストレートに訊いてくる。澪に照れる様子が微塵もないところを見ると、聖が教えた単語だけを記憶していて、実際のデートがどんなものかはよく知らないのだ。 「ふむ。……では、やはり、やる」  そう言うなり、澪は聖に背を向ける。一瞬、ひゅうと風が吹き抜けた。  訝しむ聖が眉をひそめるうちに、澪はくるりとターンして再びこちらに向く。瞳は赤い光を残していた。 「これではどうだ」 「……あれ?」  澪の視線は、聖と同じ位置にあった。背が伸びたはずの聖と、同じ高さに。  それに、すらりと伸びた手と足に、大人びた表情。さっきまで、上から覗き込むことができていたうなじの辺りは、見えなくなってしまっていた。  澪もまた、少女から女性へと劇的に変貌を遂げていたのだ――それも、一瞬で。  にっと笑う大人の澪は、相変わらず清楚ながらどこか艶のある眼差しで聖を射抜く。いつか見た瞳だと思い出してみると、冬のあの日、聞き耳を澪に捧げたときの顔だった。  そう思い至った途端、聖の胸は大きく鳴った。あの時の幸福感は、いまも聖の心に満ちている。 「これではどうじゃ。お主と並んでも、見劣りせんか」 「ええと――とても、いいんじゃないかと思います」  彼女が、外見すらも自由自在の山の神である、ということは知っていた。人型と、鹿の姿は見たことがある。いつだったか、なぜ少女に化けているのかと尋ねると、澪は『聖の歳に合わせた姿じゃ』と答えた。  だとすると、澪が大きくなったのではない。自分が――聖自身が、それだけ大きくなったということであり、澪が聖の成長を認めてくれたということか。  澪は自らの耳を指差して、首を傾げた。 「ならばよい。この方が、声が聞きよいからのう。……儂は聞き耳ではないが、聖の声はなぜかこの耳によく届く。不思議なものじゃな」 「僕もですよ。澪さまの声はよく聞こえます」  ――やっぱり、僕は澪さまの声がたまらなく好きだ。  今はもう、澪の心の声を聞くことはかなわない。しかし澪は、ただの人間になった聖にこうして語りかけてくれる。その声は、鼓膜を、そして心を震わせる音色だ。澪の声は、聞き耳の力がなくなった今でも聖には特別なのだ。澪にも自分の声がそのように届いていればいいのだけれど、と聖は微笑む。  さて、と。  少し大人になったのなら、少し背伸びをしても許してもらえるだろうか。仮にも神さまを相手に不遜な物言いをしては、罰が当たるのではないだろうか――天罰を下すとすれば、もちろん澪なわけだが――と、ためらっていた言葉があったのだが。  できる限り自然体を装って、聖は澪の耳元で囁いた。 「愛している人の声、ですからね」 「……あ――阿呆」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「うるさい。……察せ。ヒトのことはいろいろと学んだが、こういったことはどうも不得手じゃ。愛とか愛するとか、そんなことは初めて言われた。こんなに長く生きてきて、初めて。……嬉しゅうて、顔も上げられぬわ」  澪は俯いたまま呟いた。白い肌が耳まで桃色に染まっているのを見て、聖はなおさら彼女を愛おしく思う。 「これからたくさん一緒に歩くんですから、下を向いたままじゃダメですよ」 「目を閉じていても、こうしておれば道は違えぬ」  澪はごく自然に、聖の方へ手を差し出した。ぴんと立てられた澪の小指に、聖もそっと指を添える。  初めて会ったときに交わしたやり取りを思い出し、顔を見合わせて笑った。 「いつまでも、繋いでおいてくれ」 「あなたが、願う限り」 【「その、幽かな声を」  おわり】
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