至上の声(後編)

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至上の声(後編)

 聖は、腫れぼったい目をこすりながら昨日と同じ獣道を登っていた。  今日は、藪のひどいところにいちいち道を切り開いているので歩みは遅い。借りものの草刈り鎌は切れ味が悪く、手は豆ができて痛むし、腰から下は朝露のせいで雨に当たったようにびしょ濡れ。  それでも、聖は全身汗まみれになりながら少しずつ確実に進んでいく。  ようやくたどり着いた山頂の広場には、落ち葉や枯れ枝が昨日と同じように積もっていた。どうやら昨日の竜巻は幻だったようで、大風の傷跡はこれっぽっちも残っていない。あれが錯覚だとは思えないけれど、まさか澪が後片付けをしたわけでもないだろう。そんな不思議な力を使うモノたちにはこれまでもたくさん出会ってきたから納得はできる。 「澪さま! いるなら返事をしてください」  ここまで派手に近寄っても澪に追い返されないということは、彼女にそこまでの力が残っていないのか、それとももう消えてしまったのか。  聖はしばらくその場で待ってみたが、澪の姿はおろか声すらも感じることはなかった。昨日、ヒトに化けているだけでもかなり辛そうな表情を垣間見せていた澪。もしかしたら、本当に消え去ってしまったのだろうか。 「いえ。無理に返事をしなくても大丈夫。……今、見つけます」  あの声を、どうしてももう一度聞きたい。  聖は広場の真ん中に立ち、今日はためらいなく耳栓を取った。同時に襲ってくる音の氾濫は何度体験しても慣れなくて、思わず両手で耳を塞いでしまう。  自ら力を使おうとしたことなどほとんど無かったが、一度聞いた声なら間違いなく選り分けられる自信はあった。  澪の声は、涼やかな小川の流れのような耳に心地よい音。  圧倒的なノイズの中からそれだけを探し出すために、聖はそろそろと耳を押さえつける手を緩め始めた。感覚を研ぎ澄ますと、その分だけ情報量も増してくる。周囲のすべての声が聖の耳を刺激し、気をしっかり持たなければ頭痛と耳鳴り、音圧でおかしくなってしまいそうだ。  それでも、しばらく轟音と闘っているうちに音を拾うコツが掴めてきた。余計なノイズを意識せずに、求める声のみをひたすらに頭に思い描いていれば、少しだけ耳が楽になる。昨日聖の耳をくすぐった佳音、天上の音楽のようなあの声をもう一度聞きたい――そう願いながら、ひたすらに聞き澄ます。  そして、集中力も限界まで来たころ、ついに求めて止まなかった音が耳をかすめた。 『……リ……』  聞こえた。今、確かに何か聞こえた。 「澪さま?」 『……ヒジリ』 「澪さま! よかった、まだいらしたんですね!」  幽かに捉えた声は、例の古ぼけた祠からだった。一歩、また一歩と祠に近づくにつれてその音は大きく、濃くなっていく。聖は慌てて駆け寄ると、わずかな息づかいも聞き落とすまいと祠に額をすり寄せるように近づけた。  一方の澪は、昨日の無理がたたって実体を取ることもままならず、意識を保つのがやっとの状態で漂っていたが、聖の声は辛うじて聞こえていた。  自分の名を覚えている人間がまだいたのか、ああ昨日の小僧かと、澪はぼんやり考える。  前に、他人に名を呼ばれたのはいつのことだったろうと考えてみたが、澪にはもう思い出せなかった。澪、と誰かが呼ぶための名前、それは呼ぶ者がいなければないに等しい。祀ってくれる者がいないと存在する意味がない、神としての自分の命と同じ。自分を現世に繋ぎ止めるためには詣でてくれる人間の思いが必要なのだ。このままでは、いずれは存在することさえできなくなる――と、澪はすでに悟っていた。自分が神となったのも運命なら、忘れられるのもまた運命なのだろう。そう思っていた。そう諦めて、考えないことにしていた。  それなのに。  聖が来てくれた。ためらうことなく消え果てたかったからこそひどい追い返し方をしたのに、このうつけは懲りなかった。  何をしにこんなところまで登ってきたのか。  そんなに懸命に呼ばれたら、留まりたくなってしまうではないか。  もしかしたら、消えゆく自分を救いにでも来てくれたつもりなのか。  できるならその力で引き留めて欲しいと思うのはわがままだろうか。  抑えきれない澪の心が、堰を切ったように声なき声となって止めどなく溢れ出る。  自分にこれだけ豊かな思いがあったなんて、今の今まで忘れていた。遠い昔、山がもっと賑やかだったころ、澪は訪れる人々を見守りながらその一挙手一投足に泣き笑いしていたものだった。長く続いた一人きりの時間は、暖かな思い出と感情の起伏を澪から奪っていったのだ。 『帰れ』 『助けて』 『うるさい』  澪が聖の声を認めた途端、聖には聞き取りきれないほどたくさんの言葉が流れ込み始めていた。澪の思考のすべてが、次々と折り重なるように訴えかけてくる。相反するような数々の感情も、強い毅然とした態度に混じる姿通りのか弱い少女のような悲鳴もすべて澪の声なのだ。  聖は祠を抱きしめるように両手を広げた。両腕にすっぽりと入ってしまう小さな社、姿は見えないがこの中に確かに澪がいる。昨日は心を勝手に覗いて怒らせて、風前の灯火にまで追い込んでしまった。今日もまた自分は余計なことをしようとしているのかもしれない。でも、目の前で消えてゆく彼女を見殺しにはできない。 「澪さま、聖です。昨日の聞き耳です。今日も来ました」 『何をしに来た』 『助けて、まだここにいたい』 『さっさと帰れ。なぜ静かに逝かせてくれんのじゃ』 「そんなこと言わずに聞いてください。……僕には昨日、この山のすべてがあなたを惜しんでいる声が聞こえて来ました。僕もみんなと同じ気持ちで朝を待ちました。もう澪さまにお会いできないんじゃないかと心配で全然眠れなかった。……僕、澪さまに消えて欲しくないんです」 『これ以上引き留められたら未練が残ってしまう』 『例え今、長らえたとしてもいずれは忘れられるのならば、いつ消えても同じこと』  たくさんの声がそれぞれ聖に届いてくるが、その重さには違いがある。どれもが澪の心だけれど、彼女の中に占める想いの大きさの差だろうか。それらの中で、いちばん大きな声は――。 『もう、こんなに寂しい思いはごめんじゃ』 「寂しいって――それがほんとの気持ちなんでしょう!」  思わず立ち上がる。つい語気を荒らげてしまい、聖は自分自身の声に頭を抱えたが、すぐに立ち直って澪がいるはずの祠を正視する。昨日からかすかに耳に届いていた澪の本音は、改めて聞くとひどく子供じみたものだった。山の上から聞こえたすすり泣きの正体。何百年生きているのかは知らないが、なんて年を食っただだっ子だ。 「寂しいから消えたいとお思いなんですか? 聞こえてきますよ、本当は『助けて』って言ってる声が。僕には嘘はつけません。意地を張らないで下さい」  でも、そんな素朴な望みだからこそ、聖は応えたいと思った。澪の心からの小さな願いを、この耳は確かに聞き届けたから。 「僕は今日、あなたを繋ぎ止めるために来ました。僕はこの耳以外はほんとうに何にもないけど、あなたの役に立つのならいくらでも使いたいと思う。そして、その時は今だって思うんです。……姿が見えなくても、澪さまは今確かにここにいます。僕には分かる。あなたの声を聞かせてください」 『……儂とて、消えたくはない!』  聖に名を呼ばれたその時から、澪の身体はすさまじい早さで回復を始めていた。  諦めていたのが嘘のように全身に血が通い始め、温かい言葉が耳に届くたび、実体を保つことができなかったはずの澪に新しい力がどんどんみなぎってくる。その変化に誰よりも驚いていたのは澪自身だった。  失われかけていた感覚が次々と戻ってきて、澪は次第に自分の身に起こったことを把握し始めた。まず聞こえたのは耳元で優しく、あやすようにゆっくり語りかける少年の声。次いで人間の匂い、見覚えあるお人好しそうな顔。今日は、耳に詰め物は見当たらない。 『聖』  聖が自分を呼び戻してくれているんだと気づいたときには、すでに澪は祠の外へと飛び出していた。  やがて聖の目の前、祠の脇になにかが姿を現した。うずくまる銀色の毛皮の牝鹿――聖がその首に飛びつくと、思いのほか柔らかいふわりとした感触が腕を包む。そうしている間にも、鹿はみるみるうちに白い着物に栗色の髪の少女へと姿を変えていった。それは、昨日と同じ澪の姿だった。 「良かった!」  聖は無事戻ってきた澪をしっかりと両腕に収めた。 「……聖」  澪がまだ必要とされていると示すことが彼女をこの世に留める方法だと、聖がその可能性に賭けたのは間違いではなかった。  彼女の声にならない声はやがて声を伴った慟哭へと変わり、とてつもないボリュームで耳に突き刺さってきたが、聖にはそれが不快ではなかった。嗚咽でさえも美しく感じるなんて、自分の耳は使いすぎておかしくなってしまったんじゃないだろうか。  そんな聖の疑問をよそに、澪は思いを吐き出していた。 「消えるのは嫌じゃ。もっともっと、この世を見ていたい。聖とだって、たくさん話したい。……呼んでくれ、儂の名を」 「澪さま」 「もういちど」 「澪さま。澪さま、いっぱいお話ししましょう、ね? ……僕はこの村に越してきたばかりなんです。耳のせいばかりとは言いませんけど、どこに行ってもなじめなくて、結局ここまで来てしまいました。でも、今なら来て良かったって思えます。……よろしければ、僕の最初の友達になってくださいませんか」 「よろこんで。……お主が聞き耳で、本当によかった」 「僕も、僕が聞き耳で嬉しいです」  抱かれたまま小さく頷く澪の顔は見えなかったが、照れくさそうにありがとうと呟く可憐な声に聖の身体は震えた。自分の鼓動がうるさくて周りの音が聞こえない。はっきりと耳に届くのは、澪の言葉だけだった。 ◆◆◆ 「……そろそろ、離さぬか」 「あ、ごめんなさい」  しばらくして、遅まきながら自分の置かれている状況に気づいた澪は、慌てて聖の腕から抜け出した。そして、自分の両足でしっかりと立てることに改めて驚く。  今まで、人間一人の心がこれほど力になるものだと感じたことはなかった。  昔、たくさんの人々がここに集ってくれたころには、自分がこのように山にいられることが当然だと思っていた。しかし聖は、本人は意識していないだろうが、澪が人間の中にいないと生きてはいけないことを、はっきりと教えてくれた。  すべては、彼が自分の声を聞き届けてくれたおかげ。  澪は聖を正面から見ようとした。目の前がぼやけてよく見えないが、それでも聖がいる方向をしっかりと見据えて「この、うつけ者」と、やっとのことで声を絞り出す。こんなことを言いたいわけではないのに――それでも、今更ながらぎりぎりで『神』であることを自覚し、精一杯の虚勢を張ってみせる。 「何が良かった、じゃ。お主のせいで簡単には逝けなくなったではないか。……どうしてくれる」  聖は澪の潤んだ瞳にどぎまぎして、彼女から思わず目を背けた。嬉し泣きには違いないだろうけれど、女の子に泣かれるとどうしていいか分からなくなる。まして、澪さまではなおさらだ。  とりあえず非礼を詫びようと、聖は深々と頭を下げた。 「ずいぶん失礼で偉そうなことを言ってしまいましたよね。澪さまの心を盗み聞きするようなまねをしたのは悪いと思っていますし、澪さまがせっかく決断した道に背くことをしてしまったのも承知しています」 「まったくだ」 「神様に逆らったんですから、罰のひとつやふたつ覚悟はしています」 「いや、その点についてはだな、礼を言いこそすれ――」 「僕にできることなら頑張りますよ」 「ううむ」  確かに、一時よりかなり弱まったとはいえ一応は山を統べる者として、あっさり許しては示しがつかない。しかし、自分を救ってくれた聖に対して罰など与えられるわけもない。  澪はしばらく黙りこんで『天罰』の内容を考えていたが、やがて晴れやかな表情で聖に告げた。 「そうじゃな。……たまに、社の掃除でもしに来てもらおうかのう」 「それでしたらご心配なく、今日は道を作りながら登ってきましたから。いつでもお会いできるように。もう寂しい思いはさせませんから」 「その――儂は別に、会いたいなどとは思っておらぬぞ」  うっかり心にふたをするのを忘れていた澪はそっぽを向いて言い淀んだ。すっかり油断していたが、下手に何か考えようものなら聖は自分の考えを読んでしまうだろう。  恐る恐る聖の様子を横目で見ると、彼は逆に澪の顔をのぞき込んできた。目を見張る澪に、指で両耳を差し示すと「もう耳栓をしていますから心を聞いたりしてませんよ」と人懐こい笑顔を浮かべる。 「もしかして、そう思っていただいて――あいたっ」  祠の前に座ったままの二人の周りを風が吹き抜け、木々がざわめく。突風に揺られて聖の頭に落ちてきたのは、大きな松ぼっくりだった。声を殺して笑う澪の瞳に赤い光を見て、聖はそれが彼女のしわざと気付いた。 「馬鹿者、調子に乗るでない。……聞き耳が相手では、やりにくくて敵わん」  笑いを堪えながら、今度は澪が聖の顔を窺う。  手段は多少乱暴だけれど、澪は澪なりに聖に復調を知らせてくれたのだろう。聖が足下に落ちた松ぼっくりを拾い、ため息をつきながら苦笑していると、澪が不意に真顔で切り出した。 「なぜ、儂のような――昨日初めて会った化け物などにそう思い入れたのだ?」 「さあ。……どうしてでしょう」  不思議そうに問う澪に、ごまかすように聖はにっこりと笑いかけた。 「もう少し回復したら、一緒に村を見に行きましょうね。いろいろ変わってて、きっと驚かれますよ」  人の気持ちを聞くことはできるけれど、自分の気持ちを聞かせることにはまだ慣れていない。よりによって鹿とはやっかいな相手。しかし、いつか一目惚れ、正確には一『耳』惚れだと言えるときがくるだろうか。  聖は右の小指を澪に差し出す。頷きながらそれに絡む白い小指は、もう昨日のように透けたりはしなかった。 「澪さまが願う限り、ずっとここに来ます」
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