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この、確かな声を(3)
聖は今し方下りてきたばかりの山を振り返り、澪の姿がないのを確かめてから、道端にしゃがみ込んだ。立っていられなかった。頭がガンガンと痛むし、少し吐き気もする。
コートのポケットに手を突っ込んで取り出したのは、いつもの耳栓。のろのろと耳に詰めて、ようやく一息つくことができた。
今日は、『聞き耳』を開放して澪と話をしていた。それを隠すため、付け慣れないイヤーマフラーなどをしてきてしまったけれど、澪にはばれていなかったろうか。
そうまでしても、澪の本心が知りたかった。さっき、澪の『消えぬよ』という声を聞いて、そして澪の心を知って、聖はもう泣き出しそうになっていた。澪が自分のことを思っていてくれるのは心底嬉しかったし、聖がいる限りは諦めないのだと決意してくれたのも頼もしかった。
しかし、澪の心の声を聞くという行為はすなわち、聖が彼女を信用していないことの裏返しだったのだと、聖は今になって気付いた。聖に気を使い、本当のことは言わないだろうと考えたからこそ、聞き耳を使ったのだ。
僕に嘘までついて大切にしていたそれらを、自分は勝手に引っ張り出してしまった。きっと、僕にだけは知られたくなかったはずなのに。
――ごめんなさい、澪さま。僕はあなたを騙しました。
がっくりと肩を落とし、膝に額を擦りつける。こんな罪悪感に苛まれるくらいなら、やるんじゃなかった。結局、ここまでしたというのに、いちばん大事なことが言えていないのだ。『僕の力を、あなたにあげます』と。
どうして言えなかったのだろう。
澪がその申し出を断ると、聖自身が思いこんでいるからか。拒絶されることが怖いのか。継ぐべき二の矢を持っていないからか。
それとも、『力』を失った後の世界が想像できないからか。十五年かかって、ようやく慣れてきた『異能者』としての暮らしを無くすのが不安だからだろうか。
そのどれもだ、と聖は自己嫌悪に沈む。
そこで、聖の思考はストップした。
――座っていることすら辛い。
残念ながら、今日の聖にはそこから先を考える余裕などなかった。聖は、逃げるようにその場を後にした。
◆◆◆
「おい、ひー」
いきなり何者かに布団をめくられて、聖は不本意ながら目を覚ました。何者かもなにも、この部屋に住んでいるのは聖と嘉章だけだ。
コートを着たままの嘉章は、聖の顔色を窺うと、今さら申し訳なさそうに言った。
「……もしかして、具合でも悪かったか」
「まあね」
言いながら体を起こすと、それでもいくらか楽になっていた。横になったからか、頭痛薬が効いたのか。後悔だけは、まだ心の底にどんよりと沈んではいたけれど。
「うん、でももう大丈夫かも」
「それならいいけど。……起こしてごめんな」
部屋の中は、真っ暗なうえに冷え切っていた。どうやら、かなり長い間寝ていたらしい。嘉章は部屋の灯りと暖房を付けると、再び布団の脇に戻ってきた。手に何か持っている。
「ところで、これ。またまた白紙だけど、どうすんだ?」
「あ」
進路の調査票だった。学校から配布されるたびに空欄のままで放っておかれ、嘉章が見つけては聖の目の前へと戻す。そんなことを、今年は何度も繰り返している。この従兄弟は、良い意味で逃げ場をくれない。
嘉章は県下一の進学校と、地元の高校の名をそれぞれ挙げた。
「二択だろ。……まだ、街には戻りたくないのか?」
「そういうわけじゃないよ。今なら人が多いところに行っても、いけると思う。でも、ここを出たくないってのもある」
「煮え切らねえなあ。ま、じゃあもう少し悩めよ」
嘉章は笑って、聖の枕元に調査票を置いた。
席を離れるかと思ったが、嘉章は座ったままだ。聖が「まだ何かあるの?」と尋ねると、彼はコートを脱ぎ、膝を正した。そして、いつになく神妙な面持ちで切り出した。
「俺の進路は、もう決まったんだ。聞いてもらおうかな」
「何それ」
「辞めることにしたんだ。……三月で、先生辞める」
「ええっ」
聖の大声にも嘉章は動じることなく、さっぱりした顔で「そんなに驚くなよ」と答えた。これが驚かずにいられるか、と言い返そうとしたが、自分の声が頭に響いてつい尻込みした。今日はとことん不調だ。
嘉章は家でこそこんなだが、小学校に兄弟がいるクラスメートに聞くと、ちゃんと仕事はしているし、子供や保護者からの人気もあるという。今日だって、休日返上でこんなに遅くまで頑張っている。なぜ、辞める必要があるのか。
聖がしばし黙考していると、嘉章は小声で言った。
「次の春の異動では、恐らく転勤があるんだ。……となると、あいつの側にいられなくなるからな。幸い今のあいつには居場所があるし、離ればなれになってもすぐに何か起きるってわけじゃない。けど、もう亡くすのはごめんだ。少しでも近くにいようと思ってな」
「じゃ、かなでさんのために?」
照れもせず頷く嘉章。
転勤を前に、彼は決めたのだ。ここに根を下ろし、自分の手でかなでを守ることを。
嘉章が教師の仕事にどれほどの誇りと愛着を持っていたか、聖は知っている。かなでの存在が、その職を続けることよりも優先すると、嘉章は決断したのだろう。
「それ、かなでさんには言ったの?」
「ああ。ずいぶん恐縮されたけど、あれはたぶん――喜んでたんじゃないかと思うな」
控えめに、しかしきらきらと目を輝かせるかなでの姿が容易に思い浮かぶ。
「実は、四月からの仕事ももう決まってる。そのあたりのことで、最近ちょっと遅くなってるんだ」
「帰りが遅かったのは、次の仕事の準備があったからなの?」
「まあな。今のところは、変わらずここに住み続ける予定にしてる。……だから、お前も残りたいなら残っていいんだぞ」
「僕のことなんか、気にしなくていいのに」
「家族だろ」
嘉章は真顔で言った。嘉章が自分のことをそんなふうに考えていたなんて、初耳だった。何気ない言葉だったが、聖の胸には込み上げるものがあった。
「気にするとか気にしないじゃなくて、当たり前。もしそうならってだけだから、決まる前から遠慮すんな。ついでなんだから、いいんだよ」
嘉章は、聖にも選択肢を残してくれたのだ。
「ありがとう。……僕も、ヨシ兄がほんとの兄さんだと思ってる」
「俺もお前を弟だと思ってはいるけど、どうせなら可愛くて尽くしてくれる妹がよかったな」
照れ隠しなのか、嘉章は埒もないことを口走ってから頭を掻いた。
「ま、いちばん心配してるのは叔父さんと叔母さんだろうからな。ぼちぼち決めておけよ。相談にはいつでも乗るから」
飯は作っとく、と言い残して、嘉章は居間へと出て行った。
今の自分が喉から手が出るほど欲しい行動力、そして未来を切り拓く力を、嘉章は持っていた。聖は、それだけで嬉しくなった。
かなでを亡くしてからよみがえるまでの年月を、嘉章は無駄にはしなかった。二度とそんな思いはしたくないという辛い経験が、彼を動かしたのだ。職は捨てなければならなかったけれど、幸せとひきかえにするのなら後悔はないだろう。
――僕は、どうだろう。
子供だから、聞き耳だから諦めるしかなかった――そんな言い訳はしたくない。また逃げて、周りの人たち迷惑をかけたくはない。何より、澪を不幸にしたくない。
嘉章からもらった勇気が潰える前に、澪に会いに行こう。
浮上のきっかけを掴んだ聖は、手放さぬうちにと目を閉じた。
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