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この、確かな声を(4)
「休めたのか?」
澪は聖の姿を認めると、開口一番そう言った。
嘉章と話した直後から今朝まで、ずいぶん深く眠っていたようだ――とは、嘉章の弁だ。眠ったという自覚はなく、気を失っていたのに近いように思う。頭を使いすぎたのか、よほど疲れていたらしい。
それでも昨日ほど眠いわけではなかったので、「まあまあですね」と答えると、澪は満足そうに頷いた。
「それは良かった。顔色もいいようだの」
無邪気な澪の笑顔で、聖は決意を新たにし、腹を括った。
自分の提案は、きっとこの笑顔を曇らせる。でも、このひとが消えてしまうことに比べたら、曇らせるくらいは些細なことだ。
話を切り出すきっかけを窺う聖。その硬い表情を見とがめて、澪は眉を寄せたままこちらへ歩み寄ってきた。
「また何か考えておるか。ここ数日、ずっとそんな調子じゃな」
澪は聖と向かい合うと、存外軽い調子で言った。
この雰囲気の今なら、言えるかもしれない。聖は、嘉章とかなでの幸せそうな姿を心に描いた。自分と澪もそうなれたら、どんなに嬉しいだろう。
乾ききった唇を舐めて湿らすと、聖は口火を切った。
「僕、この春には中学校を出ます」
澪はきょとんとした顔で聞いている。これから何を話すかなんて、澪には想像も付かないだろう。無理もない、と聖は澪に少し同情した。
「その後どうするのか――上の学校に行くか、学校に行かずに仕事を探すか。学校に行くとしたら、どこの学校に通うのか。僕には今、それを決める時期がきてるんです。例えば、次の学校に行くなら三年かかる。遠いところに通うとしたら、少なくとも三年間はこの村にはいられなくなります」
「それで、昨日はあんなことを」
「そう、です。……実は、どうするかはまだ決めかねているんです。でも、僕がいなくなると、澪さまには悪い影響があるんですよね? いつ、澪さまが消えてしまうか分からない状況だし、高嶺さまだってあなたのことを狙ってる。どの道を選ぶにしても、弱ったままの澪さまをこのままにしておくなんて、僕にはもう我慢できない」
澪は顔色一つ変えない。あまりに無表情すぎて、取り繕ったものだとすぐに分かる。
「儂は消えぬと、言ったろうが」
真っ直ぐにこちらを見つめる澪の瞳に出会って、聖は目を逸らす。それだけで、澪は勘付いたようだった。
「そういえばお主、昨日は耳を隠しておったな。……聞いていた、か」
てっきり怒られるかと思って身構えていた聖に、澪は頭を下げた。
「聖がそこまでするとなると、よほどのことであろう? 気付いてやれなんだ。それほどに追い詰められていたとはのう。……それで、いったい何じゃ」
何から切り出そうか頭の中で考えてはいたが、そんなことは何の役にも立たなかった。
自分がこれから話すことを、澪はいったいどう思うだろう。もし、嫌われてしまったらどうしよう。
不安で不安で仕方がないが、それでも言わなくてはならない。踏み出さないと、何も変わらない。しかし一歩踏み出せば、その分は前に進むのだ。
腹に息を入れると、自然に呼吸が深くなる。無理やりに気持ちを落ち着かせ、聖はついにその言葉を口にした。
「僕の力を、澪さまに貰って欲しいんです」
「お主、正気で言っておるのか?」
「はい」
「お主を食うということじゃぞ」
「それがどういうことなのかは、かなでさんから聞きました」
澪は目を半眼に開いたまま、ううむ、と低く呟いた。
「聖の力は、儂ごときのために捨てていいものなどではない」
「捨てるんじゃありませんよ。……相手が澪さまだからお役に立ちたいんです。僕にとっては『儂ごとき』なんて、そんな軽いものじゃないんです!」
自分にとって澪がどんなに大切なのか、どうしたら分かってもらえるのだろう。
澪が聞き耳だったら良かったのに、と聖は思う。心をすべてさらけ出して、自分が澪のことしか考えていないのだと見せることができたらよかったのに。
――いや、普通は口に出さなきゃ分からないんだ。
聖はこの村に来て、あやかしのみならず、人間との『普通』のコミュニケーションも身につけた。聞くだけでは心の距離は縮まらないということも、身を持って知った。異能などなくても自分は大丈夫だと澪に見てもらわなくては。自分を信じてもらわなくては。
それならば、今こそ暖めていた思いを晒そう。
「いつかちゃんと伝えようと思っていましたが」
「何じゃ」
不機嫌そうな澪の声。
無理もないか――聖は思わず出そうになったため息を途中で止めた。本当はもっとちゃんとした場面で言いたかったけれど、非常事態だ。
冷え切った唇が上手く動いてくれますように。そう祈りながら、聖は心の内を打ち明ける。
「こんな言葉を誰かに使うのは生まれて初めてだし、きっと最後です。……僕は、澪さまのことをとても――とても大切に思っています。自分のことよりも、あなたのことが大事です。だから、あなたの命と引きかえにできるなら、力を無くしても構わない」
「そんなことを言うものではない」
「澪さま」
「聖の力は、素晴らしいものだ。儂らのような者の声を聞き届けて、慰め、救ってくれた。儂自身もほんとうに世話になった。しかし、もうこれ以上はいかん」
「分かってください、澪さま」
ほんの一瞬、澪の眉が寄った。
『聖と共に生きることができるなら――聖の隣で過ごせるならば、どんなに素晴らしいことか!』
聖は咄嗟に耳を確かめたが、今日は『聞き耳』は封じてある。昨日のように、聖が力ずくで聞いたわけではない『声』。心の中に留められているはずの声が、抑えきれなくなり、澪の中から溢れ出たのだ。それは、彼女には珍しいことだった。
それきり、何も聞こえなくなった。そっと澪を見ても、表情にそれ以上の変化はなかった。
やがて、長い長い沈黙のあと、澪は口を開いた。
「分かれ、じゃと? ……聖が儂を憎からず思っておるなど――お主、儂が、そこまで気がきかぬと思うたか? お主は、儂のためなら何もかも投げ出すだろうよ。そんなことは、百も承知じゃ」
やや震えた声で、澪は紡ぐ。
「そして儂は、お主の言うとおり、聞き耳を食らえば生き延びることができよう。じゃが、お主はどうなる? お主が自らの力を飼い慣らすためにどれほど心を砕いたか、儂は知っておる。その苦労は、何にも代え難い財産じゃ。できるなら、聞き耳を持ったままの聖でいさせてやりたい。お主、生まれてから十何年もかかって、耳がもたらす幸せをやっと今もぎ取ろうとしておるのじゃぞ? ……儂にはできぬ。お主を食うことなど、できるはずがなかろうが」
話しているうちに、静かだが強い口調が戻ってきていた。澪は、聖の方をじっと見据えている。心の揺れなど全く外に出さず、誇りを忘れない、いつもの澪だった。
――何という頑固さ。何というわからずや!
やっぱり、僕は澪さまのことが好きだ。心でしか素直にものが言えない頑なさまで含めて、全部。
「その苦労とか幸せとかまでも澪さまと分け合いたいと言ったら、迷惑ですか?」
「お主も大概しつこいのう。……もう、帰れ。儂の前から失せろ」
「え?」
信じられない言葉が澪の口から飛び出して、聖は自分の耳を疑った。澪は、手で聖を追い払うジェスチャーをしながら、重ねて言った。
「失せろ、と言うた。お主は、もう二度とここには来るな」
「僕には、もう会いたくないっていうんですか。……本当に、そう思ってるんですか?」
「出て行かぬのなら、追い出すまで」
「待ってください! そんな――澪さまも、きっと」
僕を好きでいてくれると思ったのに、と続けようとして、聖は息を飲んだ。
澪の目が赤く光っている。それは、彼女が妖力を使う前触れだった。澪が、命を削ってまで自分を山から追い出すつもりだと理解して、聖は愕然とした。
どうしてと尋ねようと思ったが、とてもまともに話ができそうな状況ではない。とにかく、無駄に力を使わせてはならない――それなら、ここは自分が引くのが最良の選択だろう。
「今日は帰ります。だから、そんなことで力を使うのはやめてください」
「今日は、ではないぞ。……金輪際、山には入るな」
聖はきつく唇を噛んだ。そんな条件に、返事などできるはずもない。澪の冷え切った声を背に、聖は叫びたいのをこらえ、山を後にした。
澪に拒絶されるのは予想していた事態だったが、それでも聖が受けたダメージは計り知れないほどだった。
――澪さまは、本当は僕のことをどう思ってるんだろう。僕が澪さまを思うほどは、僕は想われていなかったのか。僕では澪さまの伴侶には成り得ないのだろうか? それとも、僕を大事に思ってくれているからこそ、あんなことを言ったんだろうか。
「違う。……違う、違う!」
疑心暗鬼になりかけた聖は、すぐに否定する。澪は言った。聖の隣で過ごせたらいいと、心で叫んでいた。
澪と初めて出会った日もそうだった。彼女は消えゆくことを表面上受け入れながらも、心の底では泣いていた。誰にも助けを求めないからこそ、自分が救わなくてはと、聖はずっと考えてきた。
今さら怖じ気づく理由など、何もない。
これで幕切れになんて、そんなことにはさせない。悲しく終わった告白を、自分自身の力で幸せに変えてみせる。それくらいできると示さなければ、澪だって首を縦には振らないだろう。
――澪さま、僕はあなたに逆らいます。
――いえ、あなたを信じます。あなたの言葉ではなく、あなたの心の声を。
それは、聖が澪と一緒に鍛えた『聞き耳』を、ひいては澪と共に過ごした日々を信じることに他ならなかった。
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