この、確かな声を(5)

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この、確かな声を(5)

 澪は、何をするでもなくただ座っていた。  昨日、聖は来なかった。今日も訪ねてくる気配はない。  昨日今日といわず、恐らく彼はもう二度とこの山へ登ってはこないだろう。澪の願いを聞かない聖ではないはずだから。これで、聖を煩わせることもないし、彼から未来を奪わずに済む。  いくらそう思っても、欠けた胸の中は埋まらぬまま。  虚ろな理由などとうに明らかだったが、澪はあえて考えないようにしていた。考え出すと、空っぽのはずの胸に、刃物がゆっくりと押し込まれるような痛みを覚える。心が音もなくどくりどくりと血を流し、止まらない。  化け物がヒトに心を寄せるなど、あってはならなかったのだろうか。  ――いや、あってはならないはずがない。聖がそう教えてくれたではないか。  目を閉じれば、瞼の裏に聖の顔が浮かぶ。聖が話していた、人間とあやかしたちの幸せそうな話が耳にこだまする。  住んでいる世界が違っていたって、幸せは掴むことができる。そんなことは分かっていた。自分の身を捧げてまで澪を生かしたいという、聖の覚悟だって本物だと知っていた。彼を食らう覚悟がなかったのは――。 「……覚悟がなかったのは、儂の方か」  また独り言だ、と澪が投げやりに笑おうとすると、誰かが相槌を打った。 「何の覚悟ですか?」  予期せぬ声に、澪は跳ねるように顔を上げた。考え込んでいたせいか、何者かが縄張りを破っていたなんて全く気付かなかった。  そこに立っていたのは、きつい目の光を放つ長身の男――高嶺だった。  ――聖では、ない。  当たり前だ。聖にもう来るなと言ったのは、澪自身なのだから。  高嶺は澪の心中など知らず、相変わらずのわざとらしい丁寧さで挨拶する。 「ご無沙汰しておりました、澪さん」 「ふん」 「相変わらずつれない」  高嶺は喉の奥で、くくっ、と笑った。澪から言わせてもらえば彼の方こそつれないのだが、そもそも対等に話ができる相手でもない。  聖とのあれこれでただでさえ弱っているときに、高嶺の相手は辛い。だが、こちらに闘う用意がない以上、今日もやり過ごさなくてはならないだろう。  ずかずかと人の縄張りに入ってきた高嶺に苛立ちを抑えつつ、まずは様子見と、澪は軽く嫌味を呟く。 「ひとの山には入らないと言ったのは、どこのどちら様だったか」 「おや、ずいぶんとご機嫌斜めですね」  誰のせいだと思っている、と言う代わりに、澪は高嶺を半眼で見つめた。そんな視線などお構いなしに、彼は続けた。 「たまたまそばを通りかかったんですが、いつもの人間の臭いがなかったものでね。今日なら、澪さんとじっくりお話ができるかと思ったわけです。無断でここまで上がり込んだことは謝りますよ」  高嶺は、形だけの謝罪をしてみせる。  わざわざ聖がいない日を狙ってきたということか。  先日高嶺が訪れたときも聖はいなかった。高嶺の性格を鑑みるに、聖に興味がないということは、すなわち高嶺が聖の能力に気付いてはいないということだ。もし気付いていたなら、きっと今頃聖は環と同じ運命にあっただろう。今のところ、高嶺は聖を邪魔な人間としか認識していないのだ。  それは、こちらにとっては好都合だ。 「謝るくらいなら、出て行ってはくれぬものかのう」 「それは無理ですね」 「では、用件をなるべく簡潔にお願いしたい。……少し、疲れておるのでな」 「私を早く帰らせたい、と」 「……そういうわけではないが」 「私とあの子供が鉢合わせするのを、どうにか回避しようと思っているのでしょう? そんなに、あの人間が愛しいのですか」  即答はできなかった。  ――儂に、聖への思いを口にする資格などない。いや、聖の身の安全を考えれば、高嶺にそう思わせてはならない。  だからこそ、澪は高嶺に本当のことを告げた。 「違う。……あやつはもうここには来ぬよ。先日、追い払ったばかりじゃ」 「嘘の臭いしかしねぇんだよ」  何の前触れもなく、高嶺の口調ががらりと変わった。鋭い目が、先ほどまでとは別人のような凶暴さをまき散らす。 「正直に言えよ。あの餓鬼がお気に入りなんだろ?」  高嶺は澪の顎に指を掛けると、澪の抵抗など気にかけず、無理やり上を向かせた。  唇の端から覗く鋭い犬歯が、いやおうなく澪の目に飛び込んでくる。ヒトの態をするときにも、彼はこの牙を隠さない。刃のような歯が自らの首に付き立つ画を想像して、澪は身震いした。  これが、環が警告していた高嶺の本性なのか。澪は、合わない歯の根を隠すように唇を引き結ぶ。 「追っ払う理由なんかねえだろう」 「嘘はついておらぬ。あの人間との縁は切った。あやつと儂は、もう無関係よ。些細な喧嘩が元でのう。……もう、顔も、見たくない」  こころが痛かった。聖のことを口にするたび、胸の奥の傷が開く。澪は、自分で自分の傷口を抉っていった。 「白々しい」  高嶺はいきなり腕を伸ばしてきた。大きな手が澪の首を楽々と掴み、喉を潰すように力が込められた。澪は自らの首元に手をやってもがいたが、高嶺の力は緩まない。 「何を――する」 「てめえごときが俺に敵うかよ」  そのまま後ろに勢いよく押され、澪は地面に後頭部と背中をしたたかに打ち付けた。目が眩み、視界が真っ白になる。 「……う、うう」  ぶつけた頭が痛み、澪は思わず唸った。  遠のいた意識を取り戻したときには、仰向けで倒れた澪の腹の上に、高嶺が馬乗りになっていた。いつもの薄笑いではなく、こんな顔を隠していたのかと驚くほどに嗜虐的な表情で澪を見下ろしている。 「お下がりは好きじゃねえんでな。さっさと寝取ってやるよ」 「求婚だの手元に置きたいだのと散々甘い言葉を使っておいて、今度は寝取るじゃと? 素直に食うと言うたらどうじゃ」 「食って、力を取り上げて、俺の庇護なしでは生きられないようにしてやる。間違っちゃいねえだろう?」 「……この程度のあやかしなどほかにも沢山おるだろうに、何故儂なのだ」 「見た目が好みだと、前に言ったがな」 「嘘の臭いがするがのう」  澪が高嶺の言葉を借りてそう言うと、本人は鼻で笑った。 「そういうやせ我慢ができる度胸もいい。……それに免じて一つだけ言やあ――俺と同じだからだ」 「何?」 「さてね」  彼は澪に考える余裕など与えてはくれない。 「てめえは、自分の身よりあの餓鬼のことが心配なんだろう? 安心しろ。人間には興味はねえよ。それに、あいつを生かしておけばてめえの命は繋がるんだろう? その間、俺はお前で遊べるわけだ。まだ使えるおもちゃを捨てるほど阿呆じゃねえ。消えねえ程度に加減してやるよ」  高嶺に組み敷かれたまま、澪はにやりと笑った。  聖と添えず、高嶺に飼い殺されるくらいなら足掻いてみたい。死に急ぐのは趣味ではないが、最後の一蹴りを食らわして散るのも悪くない。環には謝らねばならないだろうが、『やっつける』のは無理でも、一撃加えるくらいはできるかもしれない。 「覚えておくがよい。儂の体と力がお主のものになっても、胸の中まではやらん。……他の誰にも、開かぬ」  言い終わるが早いか、澪はあらん限りの力で念じた。  高嶺の背中で、風が捲く。それはやがて轟音となって森の木々を揺すった。解け残りの雪がまるで吹雪のように空を舞う。  風で飛ばされた枝や石が高嶺の体や顔を容赦なく打ち、その度に鈍い音を立てた。折れた枝が彼の頬を抉った。しかし、いくらものが当たり傷ついても、高嶺は澪の腹の上に座ったまま表情を変えない。  やがて、澪の目から赤い色が引いていった。もともと乏しかった力を使い過ぎ、精も根も尽きた。澪の一撃は、確かに高嶺に届いた。届いたのだが――。 「終わりか?」  高嶺は頬を伝う自らの血をぺろりと舐めた。狼の性を剥き出しにしている今の高嶺には、朱く染まった唇が妙に似合っている。それが綺麗だと思ってしまった自分が悔しくて情けなく、澪は臍を噛んだ。 「無駄に暴れちゃあ、俺の取り分が減るじゃねえか。並のあやかしなら相当に効いてただろうが、あいにくと打たれ強いんでね。……鹿は久しぶりだ。味わわせて貰うぜ」  澪は、はあはあという荒い呼吸でそれに答えるほかなかった。  ――もはや、これまで。儂は、高嶺殿のものになる。  動けなくなった澪の体に高嶺が覆い被さった。抵抗する力は、澪にはない。さっき見た鋭い牙が、澪の肩口に食い込もうとしている。たまらず、澪は静かに目を閉じた。  思うのは聖のことだった。雫が一筋、目尻から伝う。  ――儂の心は聖ひとりのもの。……さらば、聖。  ぷつりと皮膚が切れる音がして、鉄に似た臭いが澪の鼻に届く。同時に、すうっと気が遠くなった。  耳元で、愉悦に浸る高嶺の声が聞こえる。 「旨いな」  首元を生温かい液体が流れてゆく。高嶺はその傷に直接口を付け、食って――いるらしかった。『食われる』ことはどれだけ苦しいだろうかと思っていたが、思いのほか痛くはない。澪の中には、何の感情も生じなかった。冷たさも温かさもない。ただ、思考が止まり、意識が薄れ、体が軽くなっていくような気がする。 「澪さま!」  よく知るヒトの声が、澪の耳を打った。  そんなはずはない、と澪は自分の考えを打ち消した。ひどい言葉を投げつけて、一方的に背を向けたのだ。来てくれるはずが――助けに来てくれるはずがないではないか、と。助かりたいあまり、聞こえもしない声を聞いたに違いないと。  ――違う。儂が、聖の声を聞き違えるわけがない。たとえば吐息のひとつでさえも、聖のことならば分かる。覚えている。  しかし、それでも信じられぬまま、高嶺に押さえ込まれた体をできる限りよじる。視界の隅に少しだけ見えたのは、見覚えのある革靴だった。 「またお前か。……邪魔だ!」  地鳴りのようにも聞こえる高嶺の怒号が、山に響き渡る。  普通の人間なら足がすくんでしまうほどの威圧を感じるであろうその声にも、彼は動じなかった。泥だらけの靴を履いた足が、迷い無くこちらへ駆けてくる。体と体がぶつかり合う音がして、視界を占めていた高嶺の姿が消えた。  代わりにこちらを覗き込んだのは、聖だった。 「澪さま」  澪が慌てて上半身を起こしたところで、聖が肩を貸してくれた。澪は、もはやひとりで立つことすらできなかった。すでにかなりの力を使い、また、高嶺に食われていたのだ。  聖が澪のふらつく体を支え、まだ体勢を立て直すことができていない高嶺から少し離れたところへと運ぶ。 「怖かったでしょう?」  温かい手が澪の涙を拭い、夢か幻と思えた聖の姿が現実だと、澪は知った。
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