鹿の子舞い(後編)

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鹿の子舞い(後編)

 祭まで半月を切り、いよいよ本番どおりに衣装を付けての練習が始まった。  その初日、いつもなら練習終了後に来るはずのちぐさもなぜか開始時間に合わせて現れていた。彼女は聖を見つけると、大きな風呂敷包みを抱えて近寄ってきた。 「大音くん、調子どう?」 「ぼちぼちですね」  俯いて苦笑すると、ちぐさは聖の耳元で囁いた。 「オヤジたちに怒られても負けないでね。本番までに何とかなればいいんだから。……もし嫌な思いしてたり、やめたくなったりしたら私に言って」 「大丈夫ですよ。下手ですけどやる気はありますから」  自分が誘った手前というよりは、心から聖の心配をしているといった様子だった。心遣いが嬉しくて聖が笑顔で答えると、彼女は「それなら、誘って良かったな」と言って荷物を床に置いた。ガサっと、大きさのわりには軽そうな音がする。 「今日はこれを配りに来たの。衣装と頭は数がないから交代で着るんだけど、足下だけは履き慣れたものを使えるようにって。私は子供の分担当。……はいはい、みんな並んで!」  言いながら解かれた包みの中身は、ビニール袋に入ったままの真新しい足袋とわらじだった。足袋は市販品だが、わらじは恐らく手作りだ。足のサイズを告げるのと引き替えに手渡され、今日からこれを使い込んでいくんだと考えるとちょっとわくわくする。 「もらった人は、あっちに行ってね。おじさんたちがわらじの履き方教えてくれて、衣装着せてくれるから」  指さされた方向では、保存会長、つまりちぐさの祖父が手招きをして待っている。  元生徒会長らしい見事な仕切りに従って移動した先には獅子頭と衣装、小道具が並べられていた。  初めて踊り装束を目の当たりにした聖は思わず顔を背けた。鹿を模した衣装だと前もって知っていたのに、そんな簡単なことにも気付かなかったなんて。  もう一度、視線を戻す。  背中からまっすぐに天へと伸びるであろう、御幣にも似た二本の真っ白いササラがまず目を引いた。異形の頭は獅子、あるいは麒麟のようにしか見えないが、一対の見事な枝角が取り付けられているので鹿に似せたものだと分かる。何よりも聖の心に突き刺さったのはその角だった。 「小瀬川さん。これって本物の角ではないですよね?」 「これは木を削って作ったやつだよ。昔は、鹿から取った角を使ってたもんだ。一説には、狩った鹿を供養する踊りとも言われとるからなあ。ありがたく舞わんとねえ」  ちぐさの祖父はそう言って獅子頭に向かって手を合わせた。彼も若い頃は猟銃と罠を担いで山を歩いていたという話を、聖は小耳に挟んでいた。猟師時代のことを思い出したのかもしれない。  澪が鹿踊を好まなかった理由は、おそらくこれだろう。いくら人間が鹿の祟りを鎮め、畏敬の念を表すためとはいえ、命を落とした仲間たちの変わり果てた姿を見せつけられなければならないのだから。しかし、澪はそれでも自分の踊りを見たいと言ってくれたのだ。嬉しさももちろんあるが、それよりも何が何でも上手に踊らなくてはという熱意が湧いてくる。  聖も、ちぐさの祖父にならって静かに手を合わせながら公演の成功を誓う。しかしその黙祷は長くは続かず、ちぐさの声で破られることになった。 「また来たのか、ってどういうことなの」 「ほんとのことじゃないか」 「だって私、用事があって来てるんだよ」 「間違ってないだろ? 正直に言っただけ」  それに答えるのは誠太郎だ。いつものケンカがまた始まったのだ、と聖が頭を抱えながら仲裁に入ろうとすると、ちぐさの祖父は「やめとけやめとけ。巻き込まれる」と歯が何本か抜けた口を開けて笑った。 「でも」 「誠太郎とちぐさは生まれたときからああなんだよ。でも、口をきかなくなるほどのもめ事にはなったことはねえな。みんなそれを知ってるから止めねえんだ」  彼はそう言うが、二人の様子がどうもおかしい。喧噪の中、とぎれとぎれに聞こえる彼らの語気が、いつもと違って荒いのだ。 「そんな言い方、しなくてもいいじゃない」 「俺はせいせいするよ」 「もういい!」  言い捨てると、ちぐさは半ば駆け足になりながら部屋から出て行った。 『……なんで、こうなっちゃうんだろう』  ひどく悲しげで、こちらまで気分が沈みそうな声だった。見回したが、誰も反応していないということは聖だけが拾った呟きだったのだろうか。  いったい何があったのかと視線を部屋の中へとやると、誠太郎と目が合った。彼は聖に気付くと慌てたように向きを変え、わらじと足袋を抱えて練習へと戻っていった。  それ以来ちぐさは練習に顔を出さなくなり、『口をきかなくなるほどのもめ事』が起こったらしいと、聖もようやく察した。彼女と聖とは学校では何度か顔を合わせたし、普通に会話もしたが、隣にいた誠太郎のことはわざと無視をしているように見えた。誠太郎も誠太郎で、ちぐさを見かけても避けて通るわけでもなく、かといって以前のようにケンカをするわけでもなく、まるで、前から知り合いではなかったかのように無言ですれ違っていた。  聖が出て行って口げんかを止めていたのはほんの数日前だったはずなのに、今はそのころが懐かしい。澪の言うように、ケンカしているうちが華だったのだろうか。もう、二人の仲は修復不可能にまで悪化しているのだろうか。  その日、聖は思い切って部活へと急ぐ誠太郎を呼び止めた。 「セータ、先輩と何かあったの?」 「何もないよ」 「先輩、練習の差し入れにも来なくなったし、最近あまり元気なさそうだから」 「あんなやつのことなんか、知らない」  素っ気ない顔で、誠太郎はしらっと答えた。  そういう誠太郎も、ちぐさが出て行った日を境に練習量が目に見えて減っていた。練習を休むこと自体はほとんどなかったが、ほぼ毎回遅れてくる。それでも相変わらず踊りは上手く、聖も細かい振り付けを教えてもらうことは多かった。 「でも、セータとケンカしてからでしょ。先輩が来なくなったのは」 「別に。……あんまり踊りのこととか祭のこととかうるさく言うから、いなくなるくせに、って言っただけ」 「どういうこと?」 「あいつ、今年受験だろ? トップ校狙える成績なんだ。だから」  ある程度成績がいい生徒は近くの高校ではなく、街の進学校に行くためにここを出て行く。それはよくあることで、ちぐさも当然そうだろうと校内では噂になっていた。だからといって、誠太郎の言いぐさは仲が良くないとはいえ幼なじみに対してあんまりなものだ。 「それは、ちょっとひどいよ」  さんざん迷って、聖は友人に意見することにした。 「僕、引っ越してきたから幼なじみがいないんだ。二人がうらやましくてずっと見てたから、仲直りして欲しいなと思って」 「もともと腐れ縁なんだ。仲直りするほどの仲もないんだよ。それが切れるだけ。どうせ春には切れるんだから、早まっただけだよ」 「でも――」 「そう言ってくれる聖には悪いけど、さ」  誠太郎は聖の言葉を遮って答えると、教室を出て行った。  生まれたときから一緒だったという二人の片方が欠けても、誠太郎は平気だと言った。しかし、あまりにも長く一緒にいすぎると感覚が麻痺することもあるのではないだろうか。現に、本人は気付いていないだろうが、あの日ちぐさの背中を見ていた誠太郎は気が気でないといった表情だったのだ。  聖はちぐさの寂しげな呟きを聞いている。当たり前のことが当たり前ではなくなるのを誰よりも早く感じ取っていたのは彼女かもしれないと、聖は思った。 ◆◆◆  当日は良く晴れて、秋らしい水色の空が高く広がった。  聖は準備のために神社の社務所へと向かっていた。どうやら秋祭りはなかなか知名度があるようで、観光客は少なくなく、公演会場である境内は人波と活気に溢れていた。とはいえ、さすがに控え室になっている社務所の裏口までも見に来る人はいない。人気のない中、出店から漂ういい香りと、現在催されている演目のお囃子だけが届いてくる。  連日の練習による疲れなのか、緊張しているためか、今日はなんだか身体が硬くて重い。そして不意に、足がさらに重くなった。転びそうになってたたらを踏みながら、何とかこらえる。  何事かと足下を見てみると、わらじの右足の縄がすり切れてしまっていた。 「……壊れちゃったんだ」  下手な分だけ他のメンバーよりもたくさん練習したのだが、その影響が今になって表れたらしい。本番はすぐなのにと困り果てて立ちつくしていると、遠くから誠太郎の声が聞こえてきた。 「おーい、聖!」  学校での聖は『耳が悪いので常時補聴器を付けている』という触れ込み。誠太郎がわざわざ大きく手を振っているのは、視覚に訴えようということだろう。聖も手を振り返す。 「セータ!」 「どうかしたのか」  こちらに向かってきた誠太郎に、聖はふざけて蹴りを入れるように右足を上げる。すると彼は、突然歩むスピードをアップして近寄るとその足をキャッチした。片足でふらふらとバランスを取りながら、聖は叫んだ。 「やめてよ、転んじゃうって」 「ああ、ここが切れたのか。これだと、すぐには直せないな」  やや目を開いて、ぼそりと呟く。どうやら、わらじの壊れた箇所を発見したらしい。  誠太郎が手を離したので、聖は反動で尻もちをついて転がった。聖が身体に付いた砂を払いながら「せっかくコケずに持ちこたえてたのに」と抗議すると、さすがに悪いと思ったようで、彼は笑いながら右手を顔の前に立てて軽く頭を下げた。 「ごめんごめん。……お詫びに、俺のわらじで良かったら貸してやるよ。サイズ合うだろ?」 「ほんと? 助かるよ」 「ただ、踊り終わったら返してくれな。俺はまだ出番あるから。ほら、履かせてやるから座って」 「うん」  何回かの公演をグループごとに交代して踊るのだが、幸いにも聖の出番は誠太郎のいる班よりも早い。ここはありがたく彼の申し出を受けることにしようと、聖は袴の裾を気にしながら社務所の壁に寄りかかるように腰を落とした。  誠太郎は手際よく自分のわらじを脱ぎ、聖に履かせると縄を結ぶ。こうして彼の作業を見ているといかにも簡単そうなのだが、聖が自分で結ぶとなぜか踊っているうちに緩んできてしまうのだ。慣れた人にしか分からないコツがあるのかもしれない。 「これでよし」 「ありがとう」 「どういたしまして。聖、頑張ってたからさ。わらじのせいで失敗したってことにでもなったら悔しいだろ。……俺はたぶん出店で何か食べてるから、終わったらよろしく。じゃ、また後で」  聖を残し、誠太郎は軽く手を上げると境内の方へと立ち去った。  ちょっと話したおかげか、顔の強ばりはほぐれて、身体もさっきより軽く感じる。本番を前にして、自分では気付かなかったがだいぶ緊張していたらしい。もしかすると、誠太郎はそれが心配で聖のところに来てくれたのだろうか。  保存会のホープの足を借りるのだから、まずい演技をするわけにはいかない。聖は確かめるように力を込めて地面を踏みしめ、立ち上がった。 ◆◆◆  無事に本番が終わり、聖は社務所の外でクールダウンを兼ねて休んでいた。  衣装を脱がせてもらうための順番待ち。座ってしまうと獅子頭の重さに負けて立ち上がれなくなりそうだったので、格好は悪いが仁王立ちだ。  汗をかいた身に秋の風は冷たい。寒さに身震いしたところに不意に後ろから肩に触れられて、聖はぎょっとしてさらに身体を震わせた。  獅子頭はしっかりした造りで、聖の目から外はほとんど見えない。しかしわずかな隙間から覗くと、狭い視界の中に自分を優しく包む誰かの細い両腕が見える。普段なら足音で気付いただろうが、疲れがピークに差し掛かっていた聖には耳に回すだけの心の余裕はなかった。 『やっと見つけた、誠太郎。ずいぶん、探しちゃった』  誰ですか――そう尋ねようとして口を開きかけた聖は、思わず息を止めた。  穏やかながら強い意志を秘めた声の持ち主は、小瀬川ちぐさ。『聞き耳』だけが聞き取れる、あふれ出した心だ。  その言葉は、聖にではなく誠太郎に向けられたものだった。皆お揃いの踊り装束では中身が誰なのか分からないはずなのに、なぜか彼女は聖を誠太郎だと確信している。  困ったことに、ちぐさは胸の中でそう考えているだけで実際はまったくの無言で聖に抱きついているのだった。下手に人違いだと言ってしまうと『聞き耳』について勘ぐられるかもしれない。その恐れと、首元に感じる柔らかい手の感触、背中越しの鼓動が、聖の動きの一切を止めていた。  だからといって人違いされたままではいけない。とにかく一度彼女を引き離そうとした瞬間、ちぐさの腕に力が入る。 『ほんとは私、ちっちゃいころからずっと誠太郎が大好きだった。この祭が終わったら言おうってずっと前から思ってたんだ』  今度こそすっかり固まった聖をよそに、彼女の告白が入り込んできた。 『好かれてるとは思ってないし、これ以上嫌われたくないから黙ってるけど、今だけはこうさせてね。誠太郎にとっては、言うだけ言っていなくなっちゃう私は迷惑なだけって分かった。でも、私はどこへ行っても誠太郎のこと忘れないよ。最後までケンカばかりでごめんね。……じゃあ、バイバイ』  背中が涼しくなった、と思ったときにはすでに足音が遠ざかっていた。 「待って、先輩!」  呼びかけてみたが、衣装の中からのくぐもった声はちぐさには届かず、彼女が駆けていったとおぼしき方向からすすり泣くような息づかいだけが響いてくる。追いかけるにも、十キロを超える装束をまとったままでは到底無理だ。それなら獅子頭を取って叫べばいいと思ったが、渾身の力で引っ張って外そうとしてもびくともしない。頭は特にしっかりと固定するため、一人で衣装を着替えたことがない聖がいくら頑張ってもそう簡単に脱げるわけもなかった。  仕方なく獅子頭の隙間から目を凝らす。見回してもすでに誰もいないことを確認して、脱力した聖はその場に座り込んだ。「次の人、中に入っておいで」と控え室の戸が開いたのは、ちょうどその時だった。  被り物の中の暗さに目が慣れていたので、衣装を脱がせてもらってしばらくは外の光の眩しさで何も見えなかった。ようやくまともに機能するようになった聖の目に最初に入ってきたのは、自分の足下だった。 「……こういうことか」  さっき借りた誠太郎のわらじ。よく見ると、右の踵に赤く染められた藁が編み込まれていた。  好きな人に渡すものだけにこっそり印を付ける。衣装はみんなお揃いだし、持ち回りで着るから個人の見分けは付かないと思っていたが、仕掛けに気付いてしまえば簡単なことだ。そういえば、わらじはちぐさが配っていた。彼女はあの日、つまり二人の大げんかがあった日にはすでに誠太郎に思いを伝える決心をしていたということになる。  あんなケンカがなければ、さっきは声に出して告白するつもりだったはずだ。  澪の話である程度は予想していたものの、よりによってこんなタイミングで切り出されるとは間が悪いにもほどがある。  彼女は『バイバイ』と言った。今日を逃すと、誠太郎とちぐさとの仲は確実に今よりも隔たってしまうだろう。そうなる前に、誠太郎を探さなくては。  わらじを握りしめ、聖は社務所を後にして駆け出した。  誠太郎は宣言通り、境内で炊き出しの鍋をすすりながら舞台を見ていた。聖が息を切らしながら「セータ!」と呼ぶと、満面の笑みを浮かべて箸を振る。彼は駆け寄った聖に、箸とお椀を持った両手をかざすように上げた。聖も、それにハイタッチで応える。 「ちゃんと踊れてた。頑張ったな」 「ありがとう。……あのさ、話があるんだけど」  ちぐさを探してくれと頼むと、誠太郎は打って変わってあからさまに不機嫌そうな顔つきで呟いた。お椀の中身をかき込んで、聖に聞こえるように愚痴をこぼす。 「わらじを返しに来てくれただけだと思ったのに。……何で、俺がそんなことしなきゃならないわけ」  しかし、気のない表情が演技であることは聖の耳だけが知っていた。 『きっと外の高校に行ったら田舎の幼なじみのことなんかどうでもよくなる。だから俺はもう引くんだ。そうしたほうが、いいんだ』  耳栓を突き抜けて聖に漏れ聞こえてきた言葉に、目を見開いて誠太郎を見る。  いつも裏表なく人に接する彼がちぐさの前だけでは妙に攻撃的になるのはなぜだろうと、聖はずっと疑問に思ってきた。特に踊りの練習が始まってからは、はたから見ていて止めたくなるほどに辛く当たっていた。誠太郎はちぐさにわざと突っかかって、自ら距離を置こうとしていたのだ。  あまり考え込むと、顔に出てしまう。何も聞かなかったふりをして、聖は尋ねた。 「僕がこんなこと言うのもどうかと思うんだけど、先輩、セータのこと好きなんじゃない? セータだって、本当は――」 「違うさ」 「違わない。セータが真面目に練習来てたのは先輩に会えるからだって、気付いてないとでも思ってる?」  ぴくりと、彼の眉が少しだけ上がった。彼がじわじわと、しかしながら確実に平静さを失い始めているのが分かる。  誠太郎がちぐさと会いたくないのなら、彼女が来なくなってからこそ熱心に練習するはずだ。しかし、そうはならなかった。彼はちぐさがいなくなったとたん、練習に姿を見せる回数が極端に減ったのだ。それが何を意味していたのか、やっと理由が分かった。まったく、自分の鈍さには嫌気が差してしまう。  先ほどよりもいくぶん語気を強めて、誠太郎は再び否定した。 「違う」 「先輩にとっては中学生活最後の、特別なお祭りなんだ。高校に行っちゃうとなかなかこっちに戻って来られないから、セータとの思い出作ろうとしてるんだって。……いや、僕が勝手に考えてるだけ、なんだけど」 「だいいち、追い掛けろって言ったってちぐさはどこいったんだよ」 『俺、そんなこと言ってもらったことないし。それに、あいつにひどいこと言ったから今さら許してもらえるわけない。きっと俺の顔も見たくないはずだから。……どうして俺はあいつと同じ歳に生まれなかったんだろう』  続きは飲み込んだ誠太郎だったが、聖の耳は拗ねたような声を拾っていた。  二人とも相手のことをいちばんに考えて、その結果、皮肉なことに自分から距離を離していこうとしている。  秘密を秘密にしておかなければならないのは、何とももどかしい。もしも誠太郎本人が先ほどのような告白に遭っていたら、変な意地を張らずに仲直りできたはずだ。ちぐさが誠太郎を想って泣いているのだと言えたら。彼女は一足先に素直になって誠太郎を待っていると伝えられたら、どんなに簡単だろう。そして、目の前の友人が心に正直に動いてくれたらどんなに楽だろう。  今すぐにちぐさを引き止めないと、そのまま二度と交わらないかもしれないのに。 「この意地っ張り! 僕、さっき先輩を見かけたんだ。必死にセータを探してた。泣いてたよ。……他の人じゃなくて、先輩はセータを待ってるんだ」  半ば怒ったような聖の様子に、今度は誠太郎が目を見張っている。  聖の耳をもってすれば、ちぐさがしゃくりあげる声など苦もなく聞こえるはずだ。しかし、誠太郎自らが彼女を探しに行かないと意味がない。ちぐさが今いちばんそばにいて欲しい人は誠太郎だし、彼自身がいちばん会いたい人は彼女なのだから。 「セータも先輩に会いたいと思ってるんなら、どこにいるかなんて自分で探してよ。好きな人の行きそうな所くらい分かるでしょ? ……なんでそんなに簡単に諦めるの? 必死に呼び続けて抱きしめたら振り向いてくれるって、どうして考えないの? 出て行っちゃうのが嫌だっていうなら、引き留めなよ。自分のこと忘れないでねって言えばいいじゃない」  誠太郎は目を丸くしたまま聖の声に耳を傾けていたが、一言「ああ」と呟いた。聖の剣幕に押されて嫌々返事をしたのかと思ったが、きりっと結ばれた口元からは決意が見て取れる。 『しばらくは俺の踊りをちぐさが見ることもないのか。そんなのは嫌だ。……俺はいつだって会いたいのに。今も、ちぐさに会いたいのに』  小さくうなずくと、誠太郎は聖の手からわらじを受け取った。きっと、自分の胸の内の言葉を反芻しているのだろう。やがて彼は、包み隠せない熱さをにじませた瞳で聖を見つめた。 「……俺、ちぐさを探しに行ってくる。世話焼かせてごめんな」 「こっちこそ、キツいこと言ってごめん」 「いや、おかげで目が覚めた気分だから。ありがとう」 「ほら、出番、まだあるんでしょ? 早く迎えに行って、見てもらいなよ」  今度は大きくうなずくと、誠太郎はわらじを手にしたままいずこかへと駆け去って行った。一人でくさっているなんて彼らしくない。はつらつと踊っていてこそ、誠太郎だ。聖は、背中が人混みに紛れて見えなくなってもなお、彼の向かった方を見守り続けていた。 ◆◆◆ 「結局、晴れて両思いになりました」  あの後、観客に紛れて踊りを見物していた聖のもとに、ちぐさは少しだけ赤い目をして現れた。誠太郎の出番になり、見事な舞いを堪能した聖が『すごかったですね』と言おうと隣を見ると彼女は姿を消していた。すでに、誠太郎をねぎらいに社務所へと向かった後だったのだ。  心配かけてごめんという話は二人それぞれからあったので、無事に仲直りしたということだけは分かったが、詳しいことは誠太郎もちぐさも口に出す気はないようだった。きっと二人だけの秘密なのだろう。 「先輩は卒業後、やっぱり街に出て行くことに決めたみたいです。どうも誠太郎も同じ高校に進む気みたいで、お祭の日以来、仲良く勉強しているのを見かけます。だから、ケンカの仲裁には入らなくてよくなりましたが、今は別な意味で気まずくて」  そんな話を澪にしてみると、彼女は少しだけ自慢げに「儂の言ったとおりであろう」と胸を張った。 「鹿も何とかって話ですよね」 「うむ。結局は、らぶらぶな二人であったということじゃな」 「ラブラブ、ですか? 記念すべき初カタカナなのに。……ぷっ」  二人の今後を少しうらやましく考えていた聖は、不意を突かれて笑いを必死に噛み殺す。まさか澪の口からそんな言葉が出ようとは考えてもみなかったのだ。時代がかった言い回しはそのままに、妙なところから現代に適応しつつあるようではある。 「なんじゃ。間違っておったか?」  気を抜くと笑いが爆発しそうになるのを何とか押さえ込んで、聖は澪にOKを出す。 「いえ、正解です。正解ですけど、澪さまの口から聞くとびっくりしますね」 「……儂はまだお主の踊りを見ておらぬのじゃが。披露するというあれは、空耳だったかのう」  当の本人は笑われたことに少なからず腹が立ったらしく、わざと痛いところを突いてきた。顎に人差し指を軽く当て、ジトッとした視線を送る。こういうところは人間よりも人間くさい。 「笑いませんか?」 「約束はできぬ」  澪は意地悪そうな口調で、容赦なく言い放った。  獅子頭に黙祷を捧げてから、聖はかなりの訓練を重ねてきた。自分の踊りを見たいと言ってくれた澪のため、聖は二度目の本番のつもりで臨む気構えだ。まさか彼女は、聖がそこまで入れ込んでいるとは思わないだろう。  澪の前に立つと、彼女と目が合った。 「では、始めます。そのまましっかりと見ていてください」  踊りながら、聖は思う。  獅子頭を見て以来、聖はこれまで忘れがちだったこと――つまり澪が本当は鹿であり、山神(やまがみ)であるという事実――をどうしても意識してしまっていた。そもそも、澪は人ではない。彼女とは重ねてきた年月も立場も、あまりにも違いすぎる。  祭の日に誠太郎に放った言葉は、今さらながら聖自身に返ってきていた。  聖は、誠太郎に他でもない自分自身の姿を重ねていた。つい感情的に彼を怒鳴りつけてしまったのも、自分に喝を入れたかったからかもしれない。誠太郎やちぐさが距離や年齢、目の前の壁を壊すところを見たかったのだろう。  澪と共に生きる自信を与えて欲しい。自分にもできると思わせて欲しい。願望を他人に託すのは決して良くないとは思うけれど、そんな本音を否定することはできなかった。 「ずいぶんと上手くなったのう」  踊り終えて澪に感想を求めると、そう言って力いっぱい手を叩いてくれた。無人の山に拍手の音がこだまする。 「獅子頭に輩(ともがら)の角が使われておったのでな。昔はまともに見られなんだが、お主の舞ならば見ていても辛くはない。……それどころか、力が湧いてくるようじゃ」  ここしばらくの苦労が報われた気がして、聖は胸をなで下ろした。やはり澪にとってあの角は心痛の種だったらしい。それでも自分の踊りを見て誉めてくれた澪の優しさに感謝しながら、聖はしみじみと喜びを噛み締めた。 「そう言ってもらえると、良かった。僕、どうにかして澪さまのお役に立ちたかったから」 「……嬉しいことを言ってくれる」  照れくさいのか、顔を伏せてしまった澪の頬にさっと赤みが差す。 『これも、お主の力なのか? 聖といると胸の奥が熱くなって温まる。それが、今の儂の日々の糧じゃ』 「澪さま」  続けて聞こえた声に聖はうろたえ、つい彼女の名を口にした。普段、澪は一切の心の声を閉じこめ、聖には聞こえないようにしている。彼女らしくもなく、どうやらうっかり漏れ出してしまった胸の内らしい。  顔を上げた澪は、やはり面映ゆげに上目遣いで聖を見つめる。 「何じゃ」 「あ、いえ、何でも」  怪訝そうに首をかしげる澪に、愛想笑いでごまかす。どうやら、聖のうっかりは勘づかれてはいないようだった。 「ご要望があれば何度でも踊りますから、おっしゃってください」 「お主の身が持たぬではないか」  澪はそう言って吹き出した。  聞き耳には、澪の思うような力はない。しかし、澪がそう感じてくれているのなら聖の胸の奥も温まる  諦めずに呼び続けていれば、もっともっと彼女に近づく時がきっとやって来ると信じたい。その日まで彼女の微笑みを絶やさぬように、澪と共にいるために、自分にできることは何でもしていこう。  もうすぐ山には冬が訪れる。寒さに澪の心が冷えてしまわないように、まずは足繁く通うことから続けようと決めて、聖もにっこりと笑って答える。 「澪さまが見てくれるなら、頑張れますから」
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