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3 故郷
ここは本当に上野なのか・・・・真貴は信じられなかった。真貴が降り立ったその場所は、鬱蒼とした木々が生い茂る山中だったのだ。
月明かりの中、仁の背中を頼りに山を下りる。
地面は当然、木の根やら大小様々な大きさの石ころがあり、気を抜けば転んでしまいそうになる。都会育ちの真貴には一苦労だ。
まさか故郷に戻り、いきなりこんな山道を下ることになろうとは思ってもいなかった。
何度も躓きそうになり、歩くことに集中すると自然と無口になった。
真貴の前を歩く仁は・・・と言えば不安な様子は一切なく、まるで全てが見えているかのように軽快にその足を進めていた。
故郷とはいえ、16年も離れていたのだ。真貴は時々、仁がわからなくなる。ソファーに寄生したアメーバの如く一日をだらだら過ごすかと思えば、高級ブランドスーツを見事に着こなし雑誌の取材に爽やかに応じる。今はこうして険しい山道を足取りも軽く進むのだ。底が知れない。
暗闇に時折聞こえてくる鼻歌が、仁がこの上なく上機嫌であることを伝える。
やっと山を抜けた時には、辺りはうっすら明るくなってきていた。とは言ってもここは上野の山である。
不忍池は山の麓近くにある。
真貴が歩いた距離は全く大した距離ではなかったのだが、真貴にはことのほか長い距離に感じられた。
「真貴、こっちに来てみろよ」
夜明けなのか、夕暮れなのかわからないような明るさの中に仁が背を向けたまま言った。
真貴は仁の横に並び目の前の景色に絶句した。
薄明りの中に広がる光景は、まるでテレビドラマのセットの様に現実味がなかった。
家々はどれも木造のシンプルな造りで二階以上の建物はなく、屋根は瓦だったり藁だったりする。
街頭もなければ、煌々と明かりのついたコンビニもない。
高層ビルなど当然ない。
道も舗装されていない。
車や自転車などもない。
今が一体何時なのかもわからないが、出発した時間を考えればおそらく夜明けなのだろう。
太陽と月が混同する薄明りのなかをちらほらと家々の戸口から人が出てきた。
皆着物を着ている。
真貴が知っている様な、よそ行きや結婚式で着るような着物ではない。
浴衣・・・と言った方がしっくりくるだろうか。着古した着物を着流して帯で止めている。
真貴はまるで、タイムスリップでもしたかのような錯覚に陥った。
言葉を発することを完全に忘れた真貴を見て仁がにやにやと笑っている。
「どうだ。ここがお前の生まれた世界、”やまと”だ」
「どうって言われても・・・”やまと”ってなんだよ」
「ここには日本なんて国はねぇんだよ。やまとだ」
へぇ、そうなんだ。言ったつもりが、声には出なかった。
自然と昨日仁が言った「平安」という言葉が浮かんだ。あの時は弟の話が衝撃すぎて流してしまったが、流してはいけなかったのだと真貴は心のどこかで後悔していた。
まさか、故郷が平安時代だなど誰が想像しただろうか。
「変わってねぇな・・・」
そう言った仁の声が心なしか嬉しそうに聞こえて、真貴は視線だけで仁を覗き見た。
故郷を見る仁は愛しいものでも愛でる様に目を細め笑っていた。
そうか、ここは仁が育った場所なんだ。そして、俺が生まれた場所。父さんや母さんがいた場所なんだと真貴は思った。
そしてもう一度視線を目の前の風景に戻した。
月と入れ違いに太陽が徐々にその高度を上げていく。
先ほどよりもより鮮明に街並みを見ることができた。
確か昔遠足で行った映画村がちょうどこんな感じだったかもしれない。やっぱり、実感などこれっぽちも湧かなかった。
「おっ、来たな」
声だけで仁が上機嫌なのがわかる。一方真貴の気分は最悪だ。無意識にポケットを漁ったあとで思う。そうだ、スマホ置いて来たんだった__小さなため息と共に真貴は眼を見開いた。
「えっ、牛?」
口が半開きのまま、真貴はぽかんとした。牛がまるでひな壇に飾ってあるような車を引いてのそりのそりとこちらに向かってくるのだ。時々モォ~と低い声で鳴く。牛は真貴と仁の前でぴたりと止まった。
「よし、乗るぞ」
仁は手慣れた様子で牛車の御簾を上げると、あっけにとられて立ちすくむ真貴の背中を押した。
「ちょっと、仁。やだよ、俺こんなの乗りたくないって」
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