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あいつがいなくなったのは、一月前のことだった──
・・・
「あーあ、つまんねえ奴ら」
隣から、そんな声が聞こえた。呟くような、微かな声だ。
そこには夏目春樹が座っている。彼は、いつもけだるそうな表情で学校に来ていた。僕は、そんな春樹の横顔をそっと盗み見た。
春樹は、僕とは何もかも違っていた。目鼻立ちの整った綺麗な顔に、すらりとした筋肉質の体。手足は長く、肌は作り物のように白い。何より彼の周囲に漂う空気は、とても不思議なものがあった。ヤンキーとはまた違う、とても危険な雰囲気を漂わせていた。
「本当、クソつまんねえ」
こんなことを呟きながら、春樹は席に座っている。そんな彼の周りには、誰も寄って来ない。顔の美しさ、スタイルの良さ、特有の危険な雰囲気……そうした諸々の要素が近寄りにくさを生み出し、春樹の周囲から他人を遠ざけていた。
にもかかわらず、春樹は常に堂々としている。ひとりぼっちというよりは、孤高の人という言葉がよく似合う。ライオンの周りに草食動物が近寄らないように、春樹の周囲には誰も近寄らなかった。
事実、彼はクラスの皆から一目置かれていた。男も女も、春樹と話す時には恐る恐る話しかけている……という感じだ。そんなみんなに対し、春樹はいつも面倒くさそうに対応している。
僕とは、完全に真逆の存在だった。
僕は、パッとしない男だ。
顔は普通だし、人目を引くような外見をしているわけではない。客観的に見て、魅力的だとはとても言えないだろう。事実、女の子にモテたことはないし、女の子と付き合った経験もない。
さらに言うと、僕には何も取り柄がない。成績は中の中だし、スポーツも出来ない。特筆するような特技もない。そう、僕という人間を一言で言い表すなら、冴えない奴という言葉で事足りる。
そんな僕は、みんなが嫌いだった。
くだらない会話で一喜一憂し、時にはオーバーなリアクションを交えて騒ぐ……そんな連中が、僕は不愉快で仕方なかった。こいつらは、誰かがコスプレすれば一緒にコスプレする。誰かが暴れ出せば、一緒になって暴れる。誰かが何かを攻撃すれば、一緒になって攻撃する。
主体性など、欠片もないクズどもだ。どいつもこいつも死んでしまえ、と本気で思っていた。
当然、友達なんかいない。もっとも、そんなものは必要なかった。あんな俗物どもと話すことはないし、かかわりたくもない。
でも、春樹だけは別だ。
この気持ちは、友情などというくだらない言葉で表現できる感情とは違う。春樹は、他の愚かな連中とは違うのだ。クラス内の人間関係やグループなどといった卑近なものを、完全に超越している。みんながコスプレしても、あいつはしない。誰かが暴れ出しても、あいつは動かない。むしろ、バカやっている連中を、超然とした態度で無視するだろう。いつものように、けだるそうな表情で席に座っているはずだ。
そんな春樹は、僕にとって例えようもなく眩しい存在だった。いつか、彼のようになりたい……とさえ思っていた。
だが、ある日を境に、春樹は学校に来なくなった。やがて、学校を辞めてしまう。
その理由を知った時、僕は愕然となった。
春樹は、年上の会社員と付き合っていたのだ。やがて彼女は妊娠してしまい、その女と籍を入れるために学校を辞めたのだという。
最初に話を聞いた時は、とても信じられなかった。春樹は、他の俗物たちを超越した男性である。そんな人が、昭和のヤンキーのように彼女を妊娠させた挙げ句に学校を辞めるとは。
あいつもまた、俗物のひとりに過ぎなかったのか。
また、いつもと同じ日々が過ぎていく。くだらない会話に夢中な人たちの中で、僕はじっと黙っている。
(あいつ、キモいよな)
(何考えてんのかわからない)
そんな風に思われていることは知っている。だが、今までは平気だった。隣に春樹がいたから。
でも、もう彼はいない。名も顔も知らぬ誰かが、そこに座っている。
僕にとって、そこは空席と同じだった。と同時に、僕の心にも穴が空いている。ぽっかりと空いた、巨大な空洞──
春樹は、俗物だった。
くだらないクラスメートよりも、さらに愚かな存在であった。にもかかわらず、そんな愚かな人間が、未だに僕を苦しめている。
こんなことが、あっていいはずがない。あんな俗物のために、なぜ苦しまなくてはならない?
やがて、僕は決意した。
あいつの存在を、この世から消し去ろう。
そう、春樹は……僕が思っていた人間とは違っていた。年上の女との関係に溺れた挙げ句に学校を辞めるような、性欲にまみれた愚かな男なのだ。
そんな俗の極みのような男に、これ以上苦しめられたくない。
春樹の家を調べるのは、実に簡単だった。彼はSNSを用いて、自分に関する情報をあちこちに拡散している。これもまた、僕の知らなかった事実だった。
本当に、春樹は凡人だったのだ。
やがて、春樹が家から出て来た。僕は、そっと後をつけて行く。
彼は歩き、人気のない陸橋下に入っていく。その時、僕は彼女を呼び止めた。
「夏目春樹」
僕の声に、あいつは振り向く。直後、訝しげな表情を浮かべた。
「あのさ、お前誰だっけ?」
春樹は、僕を覚えていなかった。
僕は、一日たりとも彼を忘れたことなどなかったのに──
もう、どうでもいい。その覚えていない相手が、お前の命を奪うのだから。
僕は、ナイフを抜いた。だが、春樹はきょとんとしている。やはり、彼は凡人だった。
殺意を秘めた人間がナイフを抜き、目の前に立っている。にもかかわらず、身構えることも逃げることもしない。きょとんとしたまま、その場にじっと立ち尽くしている。自身に危険が迫っているということすら、理解できていないらしい。
ならば、この世から消し去るだけ。そうすることで、僕の心からも消える。
消えてなくなれ。
最後に見た春樹の顔は、驚愕の表情を浮かべていた。
・・・
僕は今、白い壁の部屋にいる。鏡は壁に埋め込まれており、窓には鉄格子がある。この部屋から、出ることは出来ない。
あの日、僕は確かに春樹をこの世から消したはずだった。
にもかかわらず、あいつは消えなかった。未だに、僕の心の中に居座り続けている。
僕は間違っていた。
春樹を消すには、もっと簡単な方法があるではないか。
僕自身が、この世から消え去ればよかったのだ。
そうすれば、春樹以外のものも消えてくれる。くだらない人間も、くだらない世の中も、全てが消えるじゃないか。
こんな簡単なことを、どうして思いつかなかったんだろう。
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