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『ととんっ』という音は、まるで花火を見においで、と誘うノック音のように聞こえる。  見ても見なくてもいい花火。だが年に一度の打ち上げ花火だ。  腹ごしらえが終わって暇になったことだし、見てみるか。  暁翔はのそりと腰を上げ、玄関に向かった。  東京郊外、最寄り駅から徒歩十分ほどのこの団地は、閑静な住宅地である。  暁翔が玄関の引き戸を開けると、七月の蒸し暑い空気が肌にまとわりついた。Tシャツとチノパンというラフな格好でもかなり暑い。頭上には積乱雲が浮かんでおり、時期に雨が降りそうだった。  やっぱりやめようかな、と億劫になる。とはいえ花火の音に、ほらほら見においで、と背中を押されているよう。  暁翔は築三十年の古い自宅を出て、雑草だらけの狭い庭を横切った。  シングルマザーだった母が五年前に再婚、この家を出て以来、暁翔は一人暮らしをしている。一人でいると庭の手入れが面倒になり、雑草が伸び放題になった。胸の高さまで伸びた草もあるが、誰かに見せるわけでもない庭を、綺麗にするのは正直だるい。  生きていくのに支障はないから、別にこのままでいいだろ。  特に関心のない庭を横目に門扉を開け、公道に足を踏み出した。  団地の上から見下ろす眺望は抜群。眼下には下町風情が色濃く残る町並みが見渡せる。河川敷で行われている打ち上げ花火もよく見えた。  彼女がいた頃は、一緒に花火を観に行こうと誘われてデートをしたものだった。それなりに楽しかったけれど、いつもそれなり。今までの彼女、全員がそうだ。  原因はわかっている。女性から告白され、恋愛感情がないのにつき合うから。別にいい加減な気持ちでオッケーをしたわけではない。つき合っているうちに、いつか本気で好きになれると信じていた。だが結局そうはならず「私のこと、ほんとに好きなの?」と問い詰められ、答えに窮して終わっていた。  相手に悪いし自分も苦しい。さすがにもう、同じ過ちは繰り返したくない。だからここしばらく、彼女はいない。思えば自分から積極的に誰かを口説いたこともなく、恋愛に関してはかなり情けない人間だという自覚がある。 (俺はこのままずっと、一人でいるのかもな)  暁翔は錆びたガードレールに手をつき、遠くの夜空を彩る小さな花火を眺め、溜息をついた。ここから見える花火は手のひらほどの大きさだが、夏らしい風情を感じる。  河川敷ではきっと、仲のいいカップルが笑顔で花火を見物しているのだろう。つい、チッと舌打ちしそうになり、軽く落ち込んだ。自分の隣にも、かわいい恋人がいてくれたらいいのに。  恋愛を諦めつつも、本音はまだ枯れたくない気持ちがある。  ずっとがんばってきた趣味も、そろそろ諦めるべきかと悩んでいるのだ。何もかも枯れてしまうのは悲しい。  何気なく視線を動かすと、三メートルほど横に、若い痩身の男が立っていることに気づいた。自分と同じように花火を見物している近所の人かもしれない。会釈をしようとして、暁翔はドキリとした。男の顔には見覚えがあった。 「あんた、弁当屋の……」  思わず声が出る。  すると男が「あ!」と嬉しそうに笑んだ。
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