春の夜

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春の夜

 また一つ日が暮れた。  江戸の外れ、小さな道場の縁に腰かけた私は、ぼーっと足を投げ出し、軒と垣根の隙間に覗く月を眺めていた。満月にはまだ少しだけ足りない、紅い月。  「春の月だな」  頭の上の方から声がかかる。稽古の後の汗の匂いが、ツンと私の鼻をついた。振り返ればこの男も、同じように見上げていた。そして何も口にする事なく右隣に座った。(ちまた)で流行りの長めの羽織が、袖を通される事なく靡いている。それからチラリと私の方を見ると、すぐさまそれを肩から外し、私の膝にかけた。  「裾捲(すそまく)ってんじゃねえよ。仮にも女子(おなご)なんだろう」  投げ出した足と縁側の床との摩擦で、着物の裾が捲れ上がっていたようだ。「膝が見えるぞ」と言って笑う。見えても差し支えない関係であると言わんばかりに、私の頭に大きな手を乗せ、大きく撫で回していく。その行為は、私の髪をかき乱している。  「仮にもじゃなくて、女子なの」  「そうかよ」  この着物の丈は、私には少し小さくなっているのだ。これは彼のお古なんだから、これを着ていた頃の彼より大きくなったんだ。そう言いたくなったけれど、またガキくさいと言われてしまいそうだったので、ぐっと胸に(こら)えた。その時息を止めたので、鼓動が少し速くなる。慌てて吸い込む。焦って俯く。  どっちを向いても彼の匂いがする。見上げれば、空に浮かんだ朧月が、抑揚をつけて落ちてきそうに感じた。それに呼応するかの様に、私の心臓がどくどくと大きな音を立てる。その音が頭の中にこれでもかと響き渡る。彼に聞こえてしまうのではないかと、心配になるほどに。どうにかなってしまいそうな程に……  「風邪引くといけねぇから、ガキは早く寝ろよ」  「もうガキじゃないもん」  頬を膨らませてみても、その行為自体子供のやる事だと気付いて、口を尖らせる。私はずっと大人になりたくて、八つ違いの彼に早く追いつきたいのに、手を伸ばしても、全力で走ってみても、少しも追いつけはしない。彼は待っていてくれないのだから。  「子供扱い……しないでよ」  かといって、大人扱いされるのも、なんだかくすぐったい気がするけれど……頭に乗っけられたままの、大きな手を両手で握って、右斜め上をそっと覗いてみる。淡い月に照らされた顔は、やっぱり綺麗だ。このまま見続けていたいと、つい我を忘れて凝視するほど、彼の横顔は綺麗だ。  本当に虚ろな瞳でぼーっと眺めてしまっていた。目が合った彼は、一瞬ギョッとした様な顔をして、もう一方の手で私に目隠しをした。「何するの?」と聞いてみたけれど「ちょっと黙ってろよ」とぶっきらぼうに怒鳴った。そのまま暫く無言の時間が流れた。私の耳には、相変わらず鼓動だけが響く。  ──目の前が晴れたな、と思ったら、彼は目隠しを外して立ち上がった。その背中の月は、半分以上雲に隠れて、更にぼやけている。  「ガキは、ガキでいりゃあいいんだよ……」  距離が離れたら途端に寒くなって、私は彼の羽織を頭から被った。「どういう意味だよ」と裾を引っ掴んで見るけど、「そのまんまの意味だ」と跳ね返される。何かを言おうと口を開いたけれど、何を言おうか迷って結局何も言わなかった。彼には、言いたいこと言えているようで、本当の気持ちを伝えられていないのかもしれないと感じた。  この男のせいで、髪の毛はぐしゃぐしゃ。此奴のせいで、頭の中もぐしゃぐしゃ。だけど今夜は春の月が、いつもより暖かい夢を見せてくれるんじゃないだろうか。私も立ち上がって、羽織を投げ返す。  「おやすみ……」  「ああ、おやすみ」  ゆっくりと去っていく彼の背中。いつのまにか、肩まで手が届くようになったのに。洒落た羽織が歩幅に合わせてふわりとたなびく……その光景はいつにも増して、私に寂しさを残した。  結い上げられた黒髪は、彼にこれ以上の距離を望まない証。それでも無い物ねだりを止めることは困難だった。届かない……それ以上に手を伸ばすことすら許されない関係が、彼のそばに居る事を保証しているのだから。  春の月が、ようやく顔を出した。遠慮がちにゆっくり姿を見せる様が、奥ゆかしく……何度出会っても、決して飽きることはないのだろう。次の春も、また次の春も、照り映えるお前を見ていたい。願わくば、朧月を好む、かの男と共に。
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