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高根が戻ってくるころには、真波は元の椅子に座って注文された表情を作っていた。高根がキャンバスの前に座る。また真波のことをちらちら見ながら、静かに描きはじめた。
高根は手を止めた。
「絵、見たでしょ」
真波は目を泳がせたあと、こくりと頷いた。
「俺は別にいいんだけど。ショックじゃなかった?」
「ショックっていうか、びっくりした。上手すぎて」
「そう? それは良かった」
「ねえ、その絵のタイトル、なんていうの?」
「なんだと思う?」
「うーん……希望、とか?」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく」
「何それ。でも、いいタイトルだね。それ、もらってもいい?」
「決まってなかったの?」
「まあね」
美術室の影はだんだん濃くなり、窓の外は濃い橙色になっていく。高根がキャンバスに目を落とす瞬間を見計らって、真波は愛想笑いをやめる。
真波は廊下側の棚の上にある、布を被った高根のもう一つの絵が気になって、落ち着かなかった。
真波は一人美術室にいて、絵を眺めていた。
明日は修学旅行だからあまり遅くならないようにと切り上げることになった。銃で撃たれた少女の絵は、大体完成したようだった。一度は高根と一緒に帰路についたのだが、このもう一つの絵が気になってこっそり引き返してきたのだ。
外は完全に日が落ちて暗いため、電気を点けている。それだけで、美術室の雰囲気はさっきとは打って変わってメルヘンチックになる。そこにぽっかりと穴が空いたような、高根の絵。
青や紫混じりの黒で塗られた、全体の大部分を占める暗い背景。その中央下部に、闇に紛れている少年の姿が描かれている。少年は上部に向かって右手を伸ばしており、床を這うような体勢である。少年が手を伸ばしている先は白くなっているが、おそらく最初からそうだったのではない。
真波は息を吸って、大きなため息を吐いた。高根がトイレに行っている最中、この絵見たさに布をめくった瞬間、絵が真波に向かって倒れ、誰かが置きっぱなしにしていたパレットと筆に接触してしまったのだ。布が変なところに引っかかっていたことと、キャンバスの位置に対して真波の身長が十分でなかったことが引き起こした惨事だった。
運の悪いことに、パレットと筆には白い水彩絵の具が水に溶かされたままとなっていた。倒れた絵を起こしたときには、絵の上部、ちょうど少年が何かに向かって手を伸ばしていたその何かに、白い絵の具がべったりと跳ね返ってしまった。高根が戻ってくるころには、絵に布を元どおりに被せ、棚や床に飛び散った白い絵の具は拭き取ったため、高根はこのことに気づいていない。それでもこのまま隠しておくわけにはいかず、かといって打ち明けるわけにもいかず、悩みに悩んだ今となっては、こうしてその絵をじっと見つめている。
おそらくこの絵が、来週のコンクールに出すと言っていた作品なのだ。「ごめん、絵を倒しちゃって」や、「事故なの、事故事故」や、「誰よ、こんなところにパレットも筆も置きっぱなしにしたやつ!」など、高根にかける言葉のいろんなパターンを考えたが、それらを聞いた際の高根の顔が、まったく想像できない。見たこともない表情で怒るのか、「いいよ」と微笑んでくれたあとは、もう二度と顔を合わせてくれないのか。
刻々と、時間だけが過ぎていった。白い絵の具が跳ね返ってしまったところには、何が描かれていたのだろうか。
白い絵の具の痕をずっと見ていると、真波はそれが、少年に手を差し伸べている女性の影に見えてきた。長い髪の揺らぐ、光に包まれた女性。
真波はキャンバスを抱えると、近くのイーゼルの上に置いた。散在していた筆洗いに水を入れ、パレットに白い水彩絵の具を垂らし、濡らした筆に絵の具をなじませる。椅子に座り、絵に対して筆を構える。
もちろん、躊躇いはある。人の描いた絵に無断で描き加えるなんて、立派な破壊行為だ。でも、何が正解なのか分からない。絵を復元させる意図ではない。歪な丸を何重にもなぞり書きして、綺麗な丸に近づけるような心理だった。
『絵を見ようとして布をめくったら、倒れてしまい、前に置いてあったパレットの白い絵の具が跳ね返ってしまいました。素敵な絵を汚してしまって、本当にごめんなさい。小田原』
絵を元の棚の上に戻すと、そうしたためた手紙をキャンバスと棚の間に挟んだ。
特に絵が上手いわけではない真波が描いた、少年に手を差し伸べる女性の影。この絵を見た人にこれは何かと訊けば、八割は真波の意図するものを答えるくらいの出来ではあるが、高根の技巧の詰まった少年の絵と暗い背景に、明らかに馴染んでいない。
真波はまたため息をつくと、慎重に、キャンバスに布を被せた。
その帰り道に頭痛がしてからは、明日からの修学旅行で高根とどんな話をしようか、どうやって話すきっかけを作ろうか、そんな妄想ばかりを膨らませていた。
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