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1 笑えない理由
12/13(月)
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真波は夢のことを考えていた。
「なにぼーっとしてんの」
母の声で、ハッと我に返った。それまで母は何度か声をかけたり、顔の前で手を振っていたらしい。真波はダイニングテーブルで朝食をとっている状況にも今気づいた。途端に口の中にハチミツトーストの甘い味が広がる。ベッドから起き上がってから今までの記憶がすっかり抜け落ちていた。
「目、開けながら寝てたわよ。昨日そんなに遅くまで勉強してたわけ?」
「まあ」
口の中で返事をした。こもった声は自分でも聞き取れなかったが、阿吽の呼吸でYESかNOか区別できるのか、母はいつも聞き返してこない。忙しいのもあるのだろう。母は慌ただしくトーストとサラダを交互に口に運んでいた。
真波は制服に着替え、ボブヘアも整え終えている。高校二年生にもなれば、寝ながらでも学校へ行く支度ができるので、便利なものである。
ただ本当に寝ていたわけではない。夢から覚めたときに聞いた残響がまだ耳の奥に残っているような、不快感に気を取られていた。そのせいで、怪物に喰われるシーンを何度も頭の中で再生してしまう。身体の皮膚が縮むような恐怖が、足元から這い上がってくる。
真波はトーストを手放し、こめかみを押さえた。糸が切れたような頭痛がしたのだ。キーンという耳鳴りまでする。
「真波? どうしたの? 具合でも悪いの?」
痛みはすぐに引いた。
「なんでもない。ただの片頭痛だと思う。お母さんもたまになるっていうでしょ」
「あら。もうそんな年ごろ?」
なんだろう。それまで真波は片頭痛になどなったことはない。ただ、母を不安にさせるわけにはいかない。熱を出しただけで、母は忙しいくせに仕事を休むのだ。電話で会社の人や取引先に何度も謝る声は、もう聞きたくない。
しかし、痛みはもう綺麗さっぱり無くなっている。耳の奥の違和感も、身体にまとわりついていた恐怖も消えている。というか、何に怯えていたのだろう。怖い夢を見たことは覚えている。その夢がどんなだったか、今度はいくら考えても思い出せない。
「昨日のカレーの残り、冷蔵庫の中に入れてるから。カレーにちょっと白だしとお水入れて、冷凍うどんをチンして、カレーうどんにして食べるのよ」
「え、お母さん今日帰ってこないの?」
「昨日ちゃんと言ったじゃない。今日からまた出張だって。次に帰ってくるのは真波が修学旅行から帰ってくるのと同じ日よ」
「そうだっけ」
「珍しいわね。いつもなら同じことを二回言うと、それ前も聞いた、とか、うるさそうにするくせに」
母はエプロンの下にグレーのスーツを着ていた。出張に行く日、母は必ずスーツを着る。確かに、母は出張の前日には必ず教えてくれる。
なぜ忘れたのだろう。真波はぼんやりと考えながらコーヒーを口に、横目をテレビへ運んだ。
『続いてのニュースです。昨日夕方ごろ、神奈川県厚木市で火災が発生し、小学校高学年から中学生とみられる少年一人と、高校生とみられる少年二人が意識不明の重体です。火災があった現場は、田んぼの稲を刈る機械などを収納していた納屋で、納屋の中に置かれていた軽油がなんらかの原因で引火し、火が広がったものとみられています。また現場からは、意識不明の小型犬も見つかったとのことです。警察は、少年らの身元の特定を急ぐとともに、事故と事件の両面で捜査しています』
「昨日このふぇんで消防車がふぁしってたのって、このことだっふぁのね」
母が口にものを詰めたまま話す言葉を聞き取れるのも、親子の阿吽の呼吸である。
真波は画面をじっと見ていた。火災現場と称して映し出されるその風景に見覚えがあった。焼けただれた納屋とその近くの田んぼや土手、土手を挟んで田んぼと反対側にある、川の映像。
「ここ、そういえば昨日、図書館の帰りに通った」
母はごくりと音を立てて、口の中のものをコーヒーで流し込んだ。
「そうなの? 火事のあと?」
「ううん、火事の前」
「変な人とか見なかった?」
「どういうのが変の人っていうのか分かんない」
「挙動不審な人とか、全身黒づくめで、マスクで顔隠してる人とか」
「今の時期寒いから、みんなそんな格好してるよ」
ふと、昨日すれ違った人のことを思い出した。挙動不審で、全身黒づくめの人ではない。顔や服装はちゃんと見ていなかったが、真波と同い年くらいの二人の男性だ。なにやら激しく言い合っていた。
真波はテレビの『意識不明』という文字を見つめる。
「みんなってわけではないでしょ。事件の可能性もあるっていうから気をつけないと。重体の子たち、真波の同級生じゃなきゃいいけど」
母の言葉は、あまりにも他人事のように聞こえた。テレビやスマホが映し出す事件の画像や要約した文字は、いつでも無関係なものであるわけではない。
まさか、昨日すれ違った彼らが、意識不明の高校生なのだろうか。顔も名前も知らない。けどもしそうだったとしたら、 真波にだって彼らの運命を変えてあげることができたかもしれない。
反射的に手を上げたら、食器に触れてガシャンと音が鳴った。また頭痛がしたのだ。
「大丈夫? お母さん、出張やめて病院に連れて行こうか?」
「本当に大丈夫だから。熱もないし」
真波は言葉に怒気を含めた。心配そうに見てくる母から目をそらす。
やっぱり痛みはすぐに引く。考えていたはずのことも思い出せなくなる。
いや、ただの片頭痛だろう。ニュース番組も気持ちを切り替えて、明るい話題を報道しはじめる。
『今年度のゆるキャラグランプリ一位に輝いた、北海道札幌市の公式キャラクター・コアックマが、双子のお兄ちゃん・アックマと、札幌国際スキー場のスキー教室で、子供たちとスキーを楽しみました』
お腹にハートマークがあるピンクの可愛らしいクマのゆるキャラのほうが、グランプリ一位に輝いたというコアックマだろう。アックマという紫のほうは目つきが鋭く、背中には黒い羽根が、頭には二本の青い角が生えている。よく見たら、コアックマのほうにも白い角が生えている。二体は雪山を滑って転び、色彩豊かなの子供たちに囲まれていた。
「ここ、明日ふぁら真波たちが行くスキー場ひょね?」
「うん。スキーは二日目だから明後日からだけど」
『子供たち、とても楽しそうでしたね〜。いやあでも、今シーズンは異常なほどに各地で大雪が降ったり、雪山では吹雪や雪崩が発生したりしているようですからね。雪山へお出かけの際は、十分注意してください』
母が咀嚼を止めた。真波は母の視線を感じたが、反応しなかった。真波はカウンターキッチンの台に置かれた写真立てを見ていた。
七年前、真波が小学四年生のころ、家族でスキーに行ったときの写真である。後ろの母と父に肩を抱かれ、真波と三歳年上の兄が満面の笑顔でピースしている。四人ともカラフルなスキーウェアを身にまとって、カラッと晴れた青空に白銀の雪が眩しい、最高の家族写真。
「久しぶりのスキーじゃない。転んで雪だるまになるんじゃないわよー」
「どう転んでも雪だるまにはならないでしょ」
微かな返事は、真波が震える声を精一杯絞り出して発したものだった。
「楽しんできなさーい」
母は真波の頭をくしゃくしゃと撫でると、そのまま真波の頭を支えに立ち上がった。母はいつのまにか朝食を平らげており、キッチンで食器を食洗機に並べる音を立てた。真波はまだ三割ほどしか食べていなかった。
「食べ終わったら食器洗い機、回すの忘れないでね」
スキーに行ったときの家族写真以外にも、カウンターにはさまざまな写真がある。真波はその中の一つに視線を移した。大勢の泥だらけの野球少年が、笑顔で写っている集合写真。写真の中央でトロフィーを掲げているのが、小学六年生のころの兄である。
「ねえ」
真波は写真を見つめたまま呟いた。「お兄ちゃん、いつまで寝てるの?」
その声は、しっかり母の耳に届いていた。
「さあ。もう、大学生なのにね」
『さて、今日のお天気はどうですか?』
「あ、もうこんな時間」
母は着たままだったエプロンを脱ぎ、パタパタとフローリングの上にスリッパを走らせる。真波は思い出と後悔に意識を囚われていた。
「真波」
母の声で我に返った。すぐ後ろに母の気配があったが、真波は振り返らなかった。
「過去のことはもう忘れなさい。あなたは責任感が強すぎる。取り返しのつかないことで悩み続けて、一生笑わないでいるつもり? それじゃあ、天国のお父さんが報われないでしょ。あれは事故だった。あなたのせいじゃない」
それ、前も聞いた。真波は頭の中で呟いた。何度言われても、忘れられるわけがない。
「修学旅行、ちゃんと楽しんでくるのよ」
母の顔を見れないでいるうちに、また足音は遠ざかったり近づいたりする。
悲しいことは忘れなさい。真波は笑っているほうがずっといい。それが父の口癖だった。
テレビから笑い声が聞こえてきた。視線をやると、旬とうたわれるお笑い芸人が漫才を披露している。
笑えない。頭では面白いと思っても、表情に出せない。笑うと罪悪感が押し寄せてくるのだ。
笑えるわけがない。七年前のスキー旅行で、父は私のせいで死んだのに。
朝ごはんを食べる手が止まっていた。お腹は空いているが、胸のあたりで食べたものがつっかえているようで、もう入らない。
聞き覚えのある曲が鳴った。テレビのCMだ。色とりどり騎士同士が剣や斧、槍や弓を持って戦っている。ローブを身に纏った魔導士もいる。映像がだだっ広い白い空間に変わると、黒い巨大な狂犬のような怪物が降ってきた。尖った耳と、曲がった金色の角、大きく見開かれた金色の目。
どこかで見たことがあるような気がする。前に何度もやっていたCMを見たときの記憶だろうか。怪物が口を大きく開けて雄叫びをあげ、騎士たちが怪物に飛びかかるところで映像は終わった。『 Fantastic World』。今日から配信スタート。
ゲームは、どうしようもない悩みを紛らわす一つの手段になってくれるだろうか。
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