3 老人と独楽・森

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3 老人と独楽・森

----------------  一寸先も見えない暗闇。自分の姿さえ分からない。ただ、どこからともなくしわがれた老爺の声が聞こえてきて、彼女の名前はミランダだと教えてくれた。 「どういうこと? 私はいったい……」 「ミランダよ。君は、本当の自分を忘れている。思い出したければ、城を目指しなさい」 「城?」 「すぐに分かる。君がこの世界のどこにいようが、城は太陽のように常に見える。城への道も、迷うことはない。しかし、城へ行くには、鍵が必要じゃ」  突然、目の前に鍵が浮かび上がった。宝石のような、氷のような、きらきら輝く透明の鍵。手を伸ばしたら届きそうな距離にあると思ったが、届かない。鍵は遠くにあるようにも、幻想にも思える。 「この鍵は見つけにくいだけで、あらゆるところに散らばっている。草むらの中、木の上。落ちているものを見つけなくとも、他人から奪ってもよい。四つ、集めなさい。そして四つの鍵を持って、城へ行くのじゃ」 「城が、私の居場所なの?」 「否。城では試練が待ち構えておる。三つの試練じゃ。一つ目の試練は巨大な怪物との戦い、二つ目の試練は大勢の敵との戦い、最後の試練は、自分との戦いじゃ」 「戦いに勝てば、私は元の生活に戻れる?」 「さよう」 「もし、負けたら?」 「死を、意味する。危険なのは城だけではない。城までの道中、鍵を求める者と戦わねばならんだろう。誰を敵とみなし、誰を仲間とみなすかが重要じゃ」 「私に、仲間がいるの?」 「出会わねばならん。しかし、運命が仲間を導いてくれるじゃろう。その者たちは、かつての君に関わりのあった人物じゃ」 「試練を乗り越えたら、また、仲間と一緒に平和に暮らせる?」 「かわいそうじゃが、試練は残酷じゃ。誰かを失うとき、誰かが犠牲にならねばならんとき、一人で立ち向かわなければならないときが、必ずくるだろう。試練を乗り越えられるのは、一握りの人間のみじゃ」 「そんな……」 「ミランダ、そろそろ目覚めのときじゃ。目を、開けなさい」  眠っているつもりのなかったミランダは戸惑った。一度目をつむり、ゆっくり瞼をあげるよう意識する。暗闇の中心、鍵が浮いているあたりが引き裂かれるように、光が溢れ出してきた。真っ黒だった視界が真っ白になる。ミランダは目が眩んで思わず手のひらを前に突き出し、顔を伏せた。  ――サラサラという風の音。数回瞬きをすると、今度は白い液体に緑の液体がたらされていくように、視界が満たされていった。一面に敷き詰められた、汚れのない、艶やかな緑の草。よく見ると、すべてが四つ葉のクローバーだった。作り物のように艶やかだが、脚や手に触れている感触は柔らかい。  正面に人の気配を感じて、ミランダは咄嗟に顔を上げた。朽ちた樹木のような身なり。古い布切れのような服を身にまとい、つばの垂れ下がった茶色いハットを被った、白い口髭の老爺が、優しい表情でミランダを見下ろしていた。ミランダは老爺を凝視し、脚とお尻をべったりと四つ葉の地面につけたまま、じりじりと後じさった。 「怖がることはない。さっきまで話していたじゃろう」  暗闇の中で聞こえていた声だ。 「ここは、一体どこなの?」 「もう一つの世界じゃ」 「もう一つの、世界?」 「ここから先の真実は、自分で手繰り寄せなさい。答えは君や、仲間の中にある。さて、別れのときじゃ」  老爺の姿が、徐々に景色に溶け込んでいく。 「待って、私はいったい、これからどうすれば」  ミランダは老爺に触れようとしたが、右手は虚しく空を切った。 「試練を乗り越えるのじゃ、ミランダ。乗り越えたら、私と君はまた出会うじゃろう」  老爺の姿は風に吹かれ、ミランダは一人、緑色の世界に取り残された。 「最後に一つだけ。記憶はときに残酷じゃ。悲しい思い出は楽しい思い出を打ち消してしまう。楽しい思い出を、大切にしなさい」  緩やかな風と一緒に、老爺の声が揺らいでいた。  ミランダはある一点を見つめたまま、ゆっくりと立ち上がった。茶色いブーツは草の地面を踏みつけるが、それでも無数の四つ葉は汚れることなく、ふわりと起き上がる。青いローブと、黒髪のボブが風に揺られた。  ミランダは魅入っていた。老爺がいた背後にそびえる、左右対称の雄大な山。その頂上一帯を占める、冠雪のような真っ白な構造体。老爺があれを太陽と言ったのにふさわしい。一片の曇りも、照り付ける恒星もない青空に及んだあれこそが、この世界の太陽であることを、ミランダは悟った。  眩しいはずが、目は不思議と眩まない。遠くにあるはずが、その外形はくっきりと見える。様々な形の槍をずらっと並べたような塀を左右に従えた、閉ざされた大きな門。その先に待ち構える、異形の城。  独楽のような物体――逆さまの平べったい円錐の上に、円錐の円と同じ底面積の平べったい円柱がくっついた構造体。それが、門の上に縦に二つ、積み重なっている。すなわち、逆さまの円錐の頂点が下の物体の円の中央に接しているだけで、独楽のような物体は静止している。何かの拍子にバランスを崩して独楽が転げて落ちてきてもおかしくない、建築学的にありえない構造。それゆえ独楽は個々に浮いているようにも見える。  城も山も、周りに生えている木も草も、すべてが城を境に左右対称だった。美しすぎるこの世界の光景に、ミランダは息をのんだ。  あの城で試練が待ち構えている。そう思うにはふさわしくない、穏やかで程よく暖かな風が、静かに止めどなく通り過ぎていった。
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