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青の札、赤の札。視線を彷徨わせる。
どうすればいいんだろう。
甘いことすんな、という雪彦の声が頭の中で反響する。
――そうだ、と桜は唐突に思った。
決めたじゃないか。龍神様に、誓ったではないか。甘いことはしない。逃げない。見守ってもらうばかりなのは、もうやめだ。
「……」
それが、信じてくれた人への、ひどい裏切りになってしまったとしても。
「……ごめんなさい」
その痛みさえも、背負わなければならないと思った。それこそが、甘さを断ち切った強さなのだと思った。
「待って――」
鴉がぎょっと両目を丸くし、喘ぐように声を上げる。
――桜は、赤い札を掴み、裏向きのまま、卓の上に置いた。
しん、と店の中が静まり返る。
青の札と、赤の札。勝敗は歴然であるように、誰もが思うだろう。
鴉が震えている。桜は他の札を卓の上に置き、拳を握る。深呼吸を繰り返し、泣きそうになるのを必死で堪えた。この後のことを思うと、卒倒しそうなほど苦しかった。
「……やっぱり世の中、くずばっかりだよ」
鴉がそう呟いて、青の札の背に手を置く。その手も震えている。鴉はずっと震えていて、そして――笑った。
「はなっからそうするつもりだったんだろ? 俺を騙して、裏切って、貶めるつもりだったんだろ⁉ だから言ったじゃないか……甘いってな!」
鴉が札をめくる。だんっ、と卓の上に叩きつける。鴉の手が札から離れた――
「え……っ」
桜は思わず悲鳴に近い声を上げた。
鴉が出したのは――『慈』だった。
『天』『地』『人』には負けるが、『災』には勝つ、『慈』。
時間が止まった気がした。
『慈』? どうして? 疑問で埋め尽くされた桜の傍に、雪彦が駆け寄ってくる。卓に激突する勢いで駆けてきた雪彦は、鴉がめくったばかりの札を掴むと、喉が切れそうな声で叫んだ。
「お、お前! これ、札の色がおかしいだろ! 『慈』なのに、なんで、青……!」
「は?」鴉は酷く冷ややかな眼で雪彦を見上げる。「何が。言いがかりはよせ」
「だって、説明の時、『天』『地』『人』は青色で、『慈』と『災』が赤色だっただろ!」
「あー」
鴉はへらりと唇の端を持ち上げて笑う。
「そりゃあ、たまたま、だな。別に色に意味なんてないんだよ」
「そ……そんなの卑怯だぞ! そんなもん、勘違いするに決まって……」
その瞬間、鈍い音を立て、鴉が卓の上に拳を叩きつけた。反射的に雪彦は言葉を呑み込む。
「俺はそう言ったか? ええ? 『慈』が赤色だなんて言ったか?」
「……でも、」
「勝手に勘違いしておいて、卑怯者呼ばわりだなんてふざけるなよ!」
鴉の声には迫力があったが、しかし、その顔はまだ笑っている。
騙したのだ。桜たちが札の色を勘違いするとわかっていて、わざと仕掛けたのだ。
「で、でも、こ、こん、なの……」
みるみるうちに雪彦が涙を溜める。しゃくり上げそうになるのを堪えながら、雪彦は涙でいっぱいになった瞳を、桜に向けた。まだ放心していた桜は、そんな雪彦をぼんやりと見つめ返した。
「ご、ごめ、桜、俺が……俺が、甘いことすんなって、言わなきゃ、桜のしたいように、させてたら、桜、『地』出して、か、勝ってた、のに」
堪えきれなくなった涙の粒が、丸い頬を伝ってゆく。それを聞いて、鴉が笑った。
「馬鹿な子だ! 本気で信じて、引き分けを狙う奴なんているものか」
「桜はそういう奴なんだ!」
「どこが! 出したのは赤の札だろうが! 最初から自分が勝つことしか考えてないのさ、誰だってな!」
鴉が引き攣ったような笑い声を上げて、そう吐き捨てる。雪彦は唸りながら、ぽとぽとと涙を零している。
ずっと遠くに聞こえていたようなその声が、急にはっきりと輪郭を持った。
ようやく、はっ、とした桜は、雪彦から奪うようにして、鴉の札を見た。
「これ、ほんとうに、『慈』? ほんとうに?」
「何度見ても、『慈』だよ、お嬢さん」
「あ……」
――やっと、何が起きているのか理解した。
必死で我慢していたものが、ぱちん、と弾ける。ふ、ふぇ、え、と桜は情けない声を上げて、涙を流した。赤ん坊のように泣いた。
「さぁ、嬢ちゃん……」
玄次がやってきて、肩に手を置く。
そうだ、札を。札をめくらないと。
桜は手を伸ばし、自らが置いた赤の札に手を置く。そして、めくった。
『慈』。
――引き分けだ。
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