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6
目の前にいる鴉の顔色が、変わる。椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がり、ぱくぱくと空気を食べながら、木の札に手を伸ばした。それから大きく開いた目で桜を見上げ、また木の札を睨む。
「な……なんで、『慈』⁉ お、お前は、俺に勝つために……俺が青の札を出したから、勝つために、『災』を出して……えっ、待て……なんで……ッ、気が付いてたのか⁉」
「な、な、何にですか」
安堵して流してしまった涙のせいで、衣の裾はもう濡れ切っていた。頬を拭うが、べたべたと肌に貼りついて気味が悪い。そんなことを思っていれば、鴉は強い口調で言った。
「色だよ! 青なのに、俺が『慈』を出したと思ったのか!」
「え? あの、『天』か『地』か『人』のどれかかなって思いましたけど……」
鴉の勢いに、たじたじになりつつもそう答えれば、鴉も、男たちも、客も、雪彦や峰平でさえ、きょとんとした顔で桜を見た。桜もきょとんとした顔で見返せば、鴉は盛大な溜息を吐き、また、卓を叩く。
「もしかして、説明をちゃんと聞いてなかったのか? 『慈』は、『天』『地』『人』に負けるんだぞ。それなのに、お前が『慈』を出したら、確実に負けるじゃないか」
「そうですね……」
桜は息を吐きながら、頷いた。鴉が怪訝そうな顔つきになり、言葉に詰まっている。桜は再び、微笑みを浮かべて、そして答えた。
「確実に負けようと思ったんです」
卓の上に置いていた、木の札を指で撫でる。
「『地』を出す、と鴉さんは言っていた。けど、鴉さんは、絶対に勝たなきゃいけないとも言ってたし、それが、この少しの間で変わってしまうとも思えない。だから、嘘かもしれない、と思ったんです。青だから、『天』『地』『人』のどれかだろうと思ったけど、鴉さんが何を出してるかはわからない。もし、素直に『地』を出したとして、深読みした鴉さんが負けてしまう、なんてこともあるかもしれない――確実に私が負けられるのは、『慈』だったんです」
「か……確実に、負ける?」
鴉は動揺している。笑ってみたり、すとんと真顔になってみたりした後で、奇妙に顔を歪めていた。泣くのを堪えているようにも、桜には見えた。
「……引き分けで、二人とも助かろうとするのは、あなたの言う通り、甘い考えだと思いました」
だから、と桜は続ける。
「私は負けよう、そう決めたんです」
――小川の傍で、一人になった時。
考えた。
引き分けにしたい。でもそれを望んだところで、自分一人にはどうしようもない。
自分が、駆け引きで、引き分けにもってゆけるほど、賢くないのはわかっている。雪彦や峰平に助けを乞うても、引き分けを狙うことで、負けてしまう可能性があるのなら、協力してはくれないだろう。二人は桜の身を案じてくれている。
でも、勝ちを目指そう……という気持ちにはなれなかった。
鴉の想いが、身体を繋げたように、自分の心に流れ込むような感覚があった。彼女の、勝つしかないという強い気持ちが、苦しいくらいに、胸を締め上げていた。
引き分けにする方法すら思いつかないのに、ただ引き分けを狙うのは、甘い。甘すぎる。
――鴉を勝たせ、自分が負ける。
その選択を背負えないのなら……誰かを救う分、苦しむという選択を背負えないのなら、自分は、弱い。
桜はそう思った。だから、鴉に負け、辱めを受ける決心を付けようとした。すぐに心は決まらなかった。引き分けに逃げようとする自分がいた。けれどもそれを押しとどめた。
甘い、弱いと言われ続けてきたのだ。もう、甘くて、弱いことはしたくなかった。
そして、何とか覚悟を決めて、店へ戻ってきたのだ。
鴉が青の札を出した時、また甘い自分が顔を出した。引き分けに出来る、と囁いた。
けれども、裏を掻きすぎた鴉に、勝ってしまう可能性がある。
迷った桜を、雪彦が一喝した。
雪彦が、勝て、と言っているのは分かっていた。それでも、桜は別の選択をした――負けないという約束を、破ってごめんなさい、そう言いながら。
果たして、鴉の札は、『慈』だった――引き分けだった。
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