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「安心してしまって、私、つい、泣いちゃって……やっぱり弱いね」  桜は情けなく思いながらそう言った。鴉と雪彦が、揃って、自分を見つめていた。何か眩しいものでも見るかのように、二人とも目を細めている。桜が声を掛けようとした時、玄次が叫んだ。 「引き分けだぁ? そんなもん、つまんねぇだろうが、もう一回だ! もう一回!」 「はぁ⁉」雪彦が叫び返す。「一回きりの勝負だろうが、そういう話だったはずだぞ!」 「誰がそんなことを言った……」  玄次が苛立った声を上げ、雪彦に掴みかかろうとする。桜が悲鳴を上げそうになった時、冷静な声が飛んだ。 「――俺が言ったよ」  そう口を挟んだのは、鴉だった。しばらく呆然と桜の札を見ていた鴉だったが、突如として息を吐くと、玄次を睨みつける。玄次は一瞬だけ怯んだ後、睨み返した。 「誰がそんなことを言ったって?」 「俺が言った……もう賭けはやらん」 「んだと、てめぇ、もしかして、初めからそう言い逃れするつもりで……」 「そもそも!」  鴉はいきなり立ち上がり、吼えた。 「なんでお前のために、この俺が脱がなくちゃいけないんだ、どあほ! どうしても生身の肌を見たいっていうなら、自分が脱いでろ!」 「男が脱いで何が楽しいってんだ、あほはお前だろ」 「どうかね、女連中はその方が嬉しいかもしれないよ。そいつらは、俺やこの嬢ちゃんが脱いだって、喜びやしないだろうがな! 自分の感性が当然だと思うな、あほ!」 「お前、言わせておけば――」 「言わせておけばはこっちの台詞だ、変態――」  鴉が地面を蹴り、玄次に飛び掛かる。玄次も剛腕を鴉へ向ける。いざ取っ組み合いの喧嘩になる、というところで、他の護士の男も慌てて立ち上がり、玄次に加勢しようとした。すると、周りを囲んでみていた客たちの中から、数人が飛び出し、参戦する。それは、白鴎屋の常連客だった。彼らは鴉に味方し、男たちを殴るだの蹴るだのと追い詰めてゆく。一人一人の力は、もちろん護士の方が強いものの、多勢に無勢、という様子であった。 「桜ちゃんは良い子なんだよっ、お前ら、遊びやがって……!」 「この店に手を出したら許さねぇからな!」  その中には、昔、桜に大怪我を負わせた、かの酔っ払い男の姿もまじっている。女同士の賭け事に惹かれてやってきた客は悲鳴を上げて逃げ出し、店の中は乱闘する連中で満たされる。護士の男たちが、一人、また一人と逃げてゆく。  はっと気が付けば、峰平や、雪彦さえ、一人残った玄次を懲らしめていた。 「みんな、駄目だよ、ひどいことしちゃ……」  はらはらと桜は叫ぶが、制止する前に、玄次は鈍い悲鳴を上げながら、店から飛び出していった。護士たちはすっかり逃げてゆき、姿をくらませてしまった。  店に残ったのは、何故か晴れ晴れとした顔つきの常連客たちと、峰平や雪彦、それから――呆然として尻餅をついている、鴉だけだった。 「みんなっ、怪我はないですか? それに――鴉さん、大丈夫?」  桜は慌てて彼女のもとへと近づく。鴉はぱくぱくと唇を動かした後、近づいてきた桜に視線の焦点を合わせた。それから、ぽつりと尋ねる。 「脱がなくて、いいのか」  鴉の前には、常連客たちが立っている。彼らは呆れたような顔をしていた。  見たくもねぇ、と誰かが吐き捨てる。 「大丈夫よ、あの、それより……お仲間さん、大丈夫かな。酷い目に遭わせちゃったけど……」  いい気味だ、とまた誰かが叫んだ。そんなことを言われても、困ってしまう。とはいえ、鍛えているだろうし、駆け足で逃げて行ったところを見ると、あまり大きな怪我は負っていないだろうが。 「あいつらは大丈夫だよ」 鴉はまだ呆然としているものの、そう答えてくれた。それから、腕を伸ばし、桜の手を掴んだ。鴉の手のひらは冷たかったが、しっかりと桜の手を握っていた。 「あんた……本当に、俺を勝たせようと『慈』を選んだの」 「はい」 「思ってたより」雪彦が傍にしゃがみ込んで、桜と目線を合わせた。「馬鹿!」 「ば、ばかばか言わないでよ……」 「こいつは何なんだ」  心底から戸惑い切ったような声で、鴉は雪彦に尋ねる。雪彦はじとっとした目で鴉を睨むと、さぁな、と冷たく吐き捨てた。 「こういう馬鹿なの! ほんとに……馬鹿! さて、馬鹿のせいで、店が大変なことになっちまった。片づけねぇと……」  自分も暴れていたくせに、雪彦はそんなことを言う。確かに、店の中は、卓や椅子がひっくり返ったり、うどんの器や中身があちこちに散乱したりして、酷いありさまだった。常連客の数人が片づけの手伝いをしてくれている。 「あっ、私も……」 「待って」  鴉は手を離さなかった。勢いよく立ち上がろうとしていたせいで、つんのめり、地面で膝を打つ。それを見て鴉は反射的に手を離した。桜は膝をさすりながら振り返り、微笑む。 「どうしたんですか?」  鴉は桜を見上げている。その表情から、歪な険しさが消えていることに、桜は気が付いた。 「あの……――ありがとう。俺を勝たせようと、してくれて」  ぱちぱち、と瞬きをしてから、桜は首を傾げた。 「結局、引き分けになっちゃいましたけどね」  桜はそう言って、笑った。鴉は曖昧な表情をしていたが、つられたように、唇の端を持ち上げ、微笑んでくれた。
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