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山影の里は、今日も旅人たちで賑わっている。行き交う人々によって踏み固められ歩きやすくなった土の道の両脇に、多くの店ののれんが競い合うように並べられている。
往来を賑わす旅人の大半が、都への行き来のために山を越える商人や官人たちである。そのためか、この里には、宿や軽く食事をとれる店が多い。桜が身を寄せる店は、うどん屋――白鴎屋(はくおうや)というところである。
固い土の道を進めば、白鴎屋と書かれた、掠れた藍色ののれんが風に翻っているのが見える。表の引き戸は開かれたままになっていて、桜は風に舞うのれんの隙間を抜けるようにして店の中へ入った。店は、地面の上にそのまま建物を被せたように作られていて、床は地続きの土である。店内に視線を這わせれば、五台の卓と、それに向かう長椅子はどれも客で埋まっていた。卓の端々が砂や土埃で汚れている。昼時が過ぎて、客が帰れば、掃除をしようと桜は思った。
店の奥には、一際高い台があり、そこで店主の峰平(みねひら)が包丁を握って葱を切っているところだ。ひょろりと背の高い男であり、薄い顔つきをしていて、その眼はいつも困ったように細められている。白毛混じりの黒髪を首の後ろで結んでいて、灰色の衣の腰から、料理用の前掛けを引っかけていた。
桜は客の邪魔にならないように気を付けながら、卓の傍を通り過ぎると、料理台へと近づいた。料理台と壁の間には、大人が二人通れるくらいの広さの余裕がある。その奥、ちょうど店の角には、壁を掘ったようにかまどが作られていて、底が汚れて真っ黒になった鍋が火であぶられている。その前に鳶色の衣を着た少年がしゃがみ込み、火の世話をしていた。
「峰平さん、」
葱を切っている店主に声を掛ければ、相変わらずの温和な笑みがこちらを向く。
「あぁ、桜、おかえりなさい。どうだった」
白鷗屋で働いていた娘の一人が、母が倒れたからと、家に戻っているのだ。桜は見舞いに行っていた。
「お医者様によると、お母さまの病気は深刻なものではないみたいです。でも、やっぱり心配みたいで。しばらくは付き添っていたいと言っていました」
「それじゃあ、まだ店を手伝ってもらえそうにはないねぇ……」
峰平は困ったように微笑みながら言った。ただでさえ人手不足だったが、さらに一人減ってしまって、働けるのは桜と峰平、そして峰平の子だけになってしまった。店を回せないことはないが、書き入れ時は休む暇もなくなるだろう。
「雪ちゃん……」
桜は、鍋の火の世話をしている少年に声をかけた。かまどの前でしゃがみ込んでいるのは、十歳の少年で、峰平の子の、雪彦である。ぱっ、と振り向いたその顔は、まず、大きな三白眼が目に飛び込んでくる。いかにも生意気そうな顔をしているが、その実、生意気である。
「桜! また、騙されたな!」
雪彦は飛び跳ねるように立ち上がる。
「さっき来てた客。若い女に銀貨を恵んでもらったって言ってたけど、それ、桜のことだろ?」
「あぁ……さっきの人ね。えぇ、日笠に住んでる奥さん、子どもが生まれそうなんだって。一刻も早く駆け付けたいけど、お腹が空いちゃったらしくて……」
「嘘に決まってるだろ……」
桜が言い終わらないうちに、雪彦は盛大な溜息を吐きながら言った。
「まーた騙されて。銀貨一枚! この一か月分の、お前の大事な給金なのに!」
「そ、そうだけど。でも、別に生活に困ってるわけでもないし、助けてあげるくらい……」
「だから、助けたんじゃなくて、騙されたって言ってるんだよ。全部どーせ嘘なの! あいつはまたちょっーと離れた場所に行って、似たようなこと言って、おまえみたいな、気弱そうな、あほそうな人に声をかけて、小銭をせしめてんの。そんな奴に、銀貨渡すなんて、お前、馬鹿! あほ! まぬけっ!」
「まあまあ」そこで、見かねたように、峰平が声を上げる。「雪彦、お前が損をしたわけじゃないんだから。それに他の客の迷惑だよ」
ふと見やれば、うどんを啜っていたはずの客たちは、みな、こちらを見ていた。
「ちっ」雪彦は甲高い舌打ちをする。「まぁいいや、後でうんと叱ってやる」
「ご、ごめんね、雪ちゃん」
「ちゃん付けすんなっ」
雪彦はかっと顔を赤くすると、ますます怒ったように、地面を蹴りながら叫んだ。そこで、客が呼び声を上げたので、雪彦は荒っぽく返事をして、駆けていく。桜は胸を撫で下ろし、峰平を見上げた。
「峰平さん、済みません」
そう囁きかけると、彼は穏やかに微笑む。雪彦もこれくらい落ち着いてくれればいいのだが。
「じゃあ、表の掃き掃除をしてきますね」
「あ……待って」
片手をひらりと上げ、峰平は桜を呼び止めた。
「あのね、上手く断れない時は、僕でも、雪彦でもいいから、呼んでいいんだよ。いくらでも頼ってね」
「あ、はい、ありがとうございます、でも、ほんとうに……」
「父ちゃん、素うどん三つ」
料理台越しに雪彦が顔を出し、注文を告げる。そして桜を睨んで言った。
「しっかりしろよな、桜」
こらこら、と峰平が諫めている。あまり強く止めないのは、峰平も同じことを思っているからなのだろう――と桜は思った。
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