置き去りにされた想い

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「アオ、もういい加減やめとけ。帰って寝ろ」 カウンターの隅で突っ伏していると、頭をこづかれた。 「んん、大丈夫だってー。次はさ……ギムレット」 「……それで最後にしろよ」 彼女が美味しいと飲んだカクテルを頼んだことに、カウンターの内側でグラスを用意していた榊はすぐに気づいただろう。 問い詰められて、彼女と何があったかはほとんど話をしてしまっていたから、あまり追及されはしない。 それが今はありがたかった。 頭の横の方の空気が動いて、うっすら目を開けて顔を向けると、ギムレットが置かれている。 まるで霧をそのまま閉じ込めたかのようなほの白い色をした液体が揺れている。 その柔らかな白さがまた彼女を思い出させる。 このカクテルを飲んだ夜、彼女を初めて抱いた。 ボロボロで笑おうとしながら泣く彼女にたまらなく辛くて、そんな傷ついた姿を見たくなくて、慰めたくて。 でも自分の気持ちも抑えられなかった。 心身ともにダメージを受けていた彼女のそこにつけ込んだ。 倒れそうだった彼女に青ざめて思わず飛び込んだのがラブホだったのは、たぶん、無意識に計算していた。 だから、目覚めた彼女が受け入れてくれた時、舞い上がった。 何も見えなかった。 彼女が人妻であろうと、関係なかった。 あの時は、こんな日が来るなんて思いもしていなかった。 「女々しいなー……」 体を起こすと、ショートのカクテル・グラスの縁をつかんで一気に呷った。 さっぱりしていて、ライムの爽やかさが気分をすっきりさせる。 このカクテルが、有名な小説に登場するのだと知ったのはいつだったか。 しかもそのタイトルが『長いお別れ』とは笑わせる。 その爽快感で別れの気鬱さを吹き飛ばしてくれればいいのに、結局、彼女のことを忘れられやしない。 「アオ、もう終電過ぎてんじゃないのか?」 また突っ伏すと、榊が心配そうに声をかけた。 「まさかまた帰んない気か?」 「終電ないし」 「って、お前、もう毎日事務所に泊まってんだろ。いい加減、こっちに引っ越せば? どうせ、実家そばのアパートだろ?」 「……引っ越し、……するかな」 「そうしろ、どうせ仕事は都内なんだから、わざわざ鎌倉いる意味ないだろ。実家暮らしならまだしも」 榊が言うことは最もだ。 もうずっと鎌倉の部屋には帰っていない。 帰れるわけがなかった。 帰れば、彼女と同じ町にいながらにして、自分はたった1人で彼女に手を伸ばすこともできずその町で過ごさなくてはならない。 手を繋いだ、キスをした、抱きしめた、そんな思い出があふれてくる湘南の海さえもそばにある、あの町で。 彼女を抱いた、その思い出のあるあの部屋で。 でもあのアパートを解約したら、彼女とのつながりをさらに失うことになる。 どんな些細なことでも、彼女に繋がる糸を自分からは切れなかった。 本業をやめられないのもアパートを解約できないのも、江ノ電で通勤できるその機会をまだなくしたくないからだし、もしかしたらアパートに彼女が訪ねてくるかもしれないという期待をいまだに捨てられないからだ。 「ほんと、最悪、オレ」 こんなに未練ばかりになるとは。 「この飲んだくれ、いい加減帰れや」 榊の声に少し険が混じり始めたと思った時、「あーやっぱりここにいたー」と明るい声が聞こえてきた。 「榊さん、生ちょーだいー」 隣の席に座った声の持ち主の顔を、顔だけ動かして見た。 茶色く染めた猫っ毛を軽くヘアピンでとめたカンナがいた。本名はなんだったか。 細身の、一見女の子のようにも見える、中性的な顔立ちで、性格に共通点があるとも思えないのになぜか気があう2歳年上の友人であり同業者だ。 同じ事務所に所属するモデル仲間の中では一番に仲がいいと言ってもいいかもしれない。 「あ、起きた。アオ、今日は地元帰るの?」 頭を軽く振って否定すると、カンナは「じゃあヤバいかも」と肩をすくめた。 「社長、今日こそは事務所を締めるって言って帰ってったよー」 「マジー……。入れないじゃん。カンナん家泊めて」 「無理。今日は女の子がくるから」 「彼女?」 「じゃない。昨日、撮影先でたまたま声かけた子。めっちゃかわいくて、オレ好みでー」 思わず呆れると、思い切り顔に出ていたのか、生ビールのジョッキを飲みながらカンナは「いいだろー。エッチは女の子じゃなくて男にもいろんな意味で美容にいいんだよー」といつもよりはテンションの高い感じで笑った。 「エッチばっかじゃん、カンナの頭ン中は」 「逆にエッチしか頭になくて何が悪いんだよー? 女の子もオレも気持ちよくなれて、何がだめか分かんない。アオこそ、枯れすぎじゃないの、たかが人妻1人」 思わずムッとして顔を背けた。 「あ、こいつまだ立ち直れてないわけ?」 カンナの声は榊の方に向かったようだった。 「いい加減忘れなよー。なんだったら、オレ、誰か女の子紹介するよー?」 「いい」 「いいって、……まだ23の男子が失恋1つで有り余る性欲発散させないの、体によくないと思うよー」 「カンナ、場をわきまえてくれ……」 テーブル席に座る客を少し気にして榊が呆れの混じったひそめた声に、カンナが「すみませーん」と欠片も悪びれた風のない声で謝った。 「それにしても、遊びならまだしも、不毛すぎるよー。やっぱ紹介しよっかー?」 軽くよろしくと言えばいいのにできない。 前の自分だったら適当にかわせたのに、彼女のことをどうしても諦めきれない。 黙って腕の間に顔を埋めると、カンナは深くは追求せずに榊と撮影のことを話し始めた。 もう少し強制的に紹介でもしてくれたら、と他人頼みしたくなる情けなさがもちあがる。 本当は諦めたい。 諦められるなら、忘れてしまいたい。 でも、彼女はようやく言葉にしてくれたのだ。 たった一度。 本気だと、好きなのだと。 そばにいたいと、そう言ってはにかんだ彼女。 それにすがりついていないと、本当は、後悔と絶望に発狂してしまうんじゃないかと思う。 できるなら、自分という人間を握り潰してしまいたいくらいだ。 彼女が好きだと言ってくれた言葉を思い出すたびに、その直後に関係を気まずくさせた言葉が、碧を同時に責め苛むというのに。
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