置き去りにされた想い

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「いらっしゃい」と榊の声に浮き上がるように目を覚ました。 本気で爆睡していた。 目をこすりながら顔を上げると、隣にはまだカンナがいた。 「あれ、女は……?」 「急に撮影入って来れなくなっちゃったんだってー。こんな時間にさー。警戒されたかなー」 どうやらふてくされて飲んでいたらしい。 でもその割にはなんだか急にそわそわし始めている。 カンナの視線がカウンターの反対側に座った女をちらちら伺っている。 かわいいとひと目で分かる女がちょうどカクテルを頼んでいるところだった。 モデル業界にいると、かわいいだとかきれいだとかの女は意外に世の中に多い。 それは男側からもそう言えるけれど、慣れは怖いもので、同時に少しかわいいくらいでは見慣れてもしまう。 でもそこにいる女はモデル業界でもふつうに通用するレベルだった。 案の定、カンナはイスから立ち上がるとその女の隣に「隣、いいかなー?」と無邪気に笑いかけた。 榊の呆れた視線と思わずぶつかる。 カンナのすごいところは、相手が女だろうと男だろうと、その無邪気さ、屈託なさで懐にするりと入れてしまうところだ。 その人たらしな部分がある意味、カンナたらしめてると言ってもいい。 だから、ほとんどモデル業界で友人のいない碧は、交遊の広いカンナにだいぶ救われている。 本人はモデルよりも、モデルの世界でたくさん女の子と遊べるのがいいのだと言って憚らないのもおもしろいと思っていた。 「あの、もしかしてモデルのカンナさんですかぁ?」 「あ、僕のこと知ってるんだー?」 「知ってます! わー、信じられなあい!」 男を意識してます的なファッションもだったけれど、どこか甘えたような口調に、内心げんなりして顔を伏せた。 外見はともかく内面やふるまいは好みでないどころか苦手なタイプだ。 「今日は1人なのー?」 「そうなのー。この近くに住んでてー」 「え、そうなんだー? いいこと聞いちゃったー」 カンナのスイッチが入ったなと思う。 甘ったるい声を聞かされ続けるのは、自分の母親を思い出させられて苦痛だった。 耳を塞ぐようにしている間にも、女とカンナは意気投合したように盛り上がっている。 カンナのお持ち帰りコースか、お持ち帰られコースかはわからないけれど、どうせ女の部屋に行くならここで飲んでいなくてもいいだろうと思いつつ、また眠気に誘われた。 うとうとしたのはほんのわずかで、店内の空気が少しざわついた気配で目が覚めた。 最近、断続的な睡眠ばかりで、常に眠気がじわりとつきまとっている気がする。 顔を上げると、カンナがスマホをいじっている。 「あれ、お持ち帰られる予定は?」 「んー、お持ち帰られるよー。花ちゃんっていうんだー。なんかこの近くのマンションに住んでるってさ。お嬢様だった」 「よかったじゃん、リベンジできて」 「でもさー、さっきからあの子のスマホ、けっこう鳴るんだよねー。男じゃないかなー?」 「本人は?」 「トイレ」 「男いてもカンナ、平気でしょ」 「うんどうでもいいー。つか、後腐れ少なきゃどっちでもいいしー」 「事務所が聞いたら、ブチ切れそう」 「うん、マネの三鷹ちゃんにはいつも怒られるー。いつか足元すくわれるからやめてーって」 「だろうね」 おかっぱ頭がトレードマークのカンナのマネージャーを思い出していると、スマホが震える音がして、なんとなくカウンターに置き去りにされた女のスマホを見た。 画面が明るく光って着信らしいバイブ音を響かせている。 カンナがひょいと体を横にずらして、画面を覗き込んでいる。 「やっぱ男だー。あの子も無理かなー、こんな着信あると」 カンナが拗ねたように言ったちょうどその時、奥から女が出てきた。 碧の背後を通りがてら、ちらりと視線が寄越された。 意味ありげに唇の端があがった笑みとともに。 媚を含んだその視線に、男慣れしてるなと思う。男にモテることも自覚している。 「お待たせしちゃった、カンナくんごめんなさぁい」 「なんかさー、さっきからスマホ鳴ってたよー。一ノ瀬なんとかって男ー」 一瞬、眉をひそめた。 彼女と同じ苗字。 「えー見ちゃったのー?」 さっとカウンターテーブルの上に置いてあったピンクのケースに入ったスマホをとりあげて、女は軽く、もちろんかわいく見えることを計算した程度でカンナを睨んだ。 「そりゃ見ちゃうよー。カレシと鉢合わせしたくないもーん」 「カレシじゃないですー。会社の上司」 「上司がそんなに電話鳴らすかなー。もうこんな時間だしー?」 「んー、そこは企業秘密です」 ハートマークがついてそうな物言いに内心吐き気を覚えながら、早く行ってくれとカンナの方のイスの脚を軽く蹴飛ばした。 カンナがちらりと背後を振り返って、「もー嫉妬しないでよ」とふざけるように笑った。 「あの、そちらって……モデルのアオさん、ですよね?」 「違います」「そうだよー」 否定の声はカンナの声と被って、女は一瞬きょとんとしてから、楽しそうに黄色い笑い声をあげた。 「やあだ、おもしろーい」 こっちは何もおもしろくない。 「じゃあ、今度はアオさんと飲んでみたいなぁー」 「僕のいる前で言うって、花ちゃんそれどうなのー? すっごいショックだなー」 「えー、カンナくん、嫉妬してくれるんだあ、うれしーい」 早くお持ち帰られてくれ、とカンナに目だけで訴えると、カンナは小さく肩をすくめて、するりと花という女の腰に手を回してしなだれかかった。 普通は逆だが、カンナならそういう甘える感じが猫のようだとむしろかわいがられる。 本当に天性のもので、カンナこそモデルの世界では泳いでいけるのだろうと思う。 いちゃいちゃしながらようやく2人が店を出ていって、思い切り疲れたため息が出た。 「あんの肉食獣には、つける薬ねえなぁ」 呆れたようにカウンターの内側で様子を見ないようにしつつ見ていた榊が苦笑した。 「もうビョーキだから」 「そうだな。で、お前はどうすんの? うち泊まるか?」 「あざっす」 「……少しは遠慮してくれ」 榊が後ろポケットから取り出したキーを投げて寄越した。 それを受け取りながら、2人が出ていったドアの方をもう一度見た。 どうも何かが引っかかった。 「名前か?」 ふいに榊がそう聞いてきて、碧は、ドアから榊の方を見た。 一ノ瀬という名前は、たくさんあるわけではない。 「まあ……」 言葉を濁しながら、手の内の飛行機のキーホルダーがついたキーを弄んだ。 胸の奥がざわつくのは、彼女と同じ苗字がふいに出てきたからか、それとも、ほかの意味があるのか。 碧はゆっくりとキーを天井に放り投げて、横に払うようにキャッチした。 そしてイスから立ち上がると財布を取り出しながら、榊に勘定を伝えた。 「なぁ、おっさん。あの女がまた来たら、ちょっと教えてくんない?」 「……色っぽい話じゃなさそうだな」 「カンナにも言うつもりだけど、なんか、こううまく言えないけど、腹黒そうで気味悪いっつうか。あの手のに、オレけっこう鼻きくから」 「……まあ、お前の場合、そうか」 榊が思い浮かべたのは、たぶん、およそ母親らしからぬ碧の母親の顔だろう。 どこか哀れむような目を一瞬だけ碧に向けてから頷くと一万円札を受け取った。 碧はもう一度、ドアの向こうを見た。 ひどく気持ちが泡立つように落ち着かなかった。
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