置き去りにされた想い

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大きく伸びをして、周りを見渡した。 ヘッドフォンをしていたせいで、社内の様子にほとんど気づいていなかった。いつのまにか主な社員はみんな姿を消している。 残っているのは、記述したプログラミングがうまく実行できないか、あるいはゾーンに入ったかのように集中しているかの新入社員か。 こわばった肩をぐりぐりと回して、マスクの内側でため息をついた。 「おつかれー、すっごい集中力で誰も声かけらんなかったよー」 後ろからかけられた声に振り向いた。 「剣崎さん。まだ残ってたんすか?」 同じチームのリーダーである剣崎璃子が腰に両手を当てて立っていた。 肩まで切り揃えた髪が揺れている。 「あのね、君が帰らないからでしょ。で、終わったの?」 ずいっと身を乗り出して、璃子は碧の前に並ぶ二台のモニタに顔を近づけた。 ふわっと柑橘系の香りが漂って、いつもパンツスーツの璃子がなにげに女子力があるのだとちょっと意外だった。 思えば、彼女は香水なんてひとつもつけていなかった。 なのに、ほんのりと甘いような爽やかなような匂いがしていた気がする。 「うん、けっこうきれいに書いてるね。筋いいけど、ここはさー……」 言いながら璃子がキーボードに手を伸ばして、碧は少しイスを引いた。 すばやいタッチで璃子は画面に碧が書いたプログラムの一部を書き換えた。 璃子が身を引いて、碧は画面をのぞきこんだ。 確かに璃子の書いた記述の方が結果は同じかもしれないがふるまいとしてはスマートのように見える。 「ああ……なるほど……」 「さ、今日は終わった終わった。そんなに根つめてるとぶっ倒れるよ」 言われて頷いた時、少し視界が揺れたような気がした。 「じゃあ、おつかれさまー」 璃子が手をひらりと振って身を翻した。 頭を下げて、ほとんど物など置いていない机の上を片して立ち上がった。 その瞬間、ぐらりと視界が大きく回った。 ヤバいと分かって慌てて目の前のデスクに手をつきかけて、崩れ落ちた。 激しく物を倒す音が響いた。 「ちょ、ちょっと、雑賀くん!?」 璃子の慌てた声が遠く聞こえたのにすがる余裕もなく、あっという間に目の前が暗くなった。 すうっと意識が水面下から浮きあがるような心地がして、もがいた。 その時、ひんやりした感触が額に触れた気がした。 彼女だと、思った。 いつも彼女の肌は触れるとどこかひんやりとしていて、でもその体に身を沈めると熱くて気持ちよかった。 時間が許すならずっとそうしていたいと何度となく思ったその感触。 今でもどうしたって無意識に探して、求めてしまうその人の。 呼ぶ声がきこえた。 「凪音」 「……くん?」 「凪音!?」 跳ね起きた。 小さな悲鳴があがって、その声の方を見ると、尻もちをついた璃子が驚いたように目を見開いていた。 「ちょっと、驚かさないでよー……。心臓止まるかと思ったじゃないの」 少し怒ったような顔で璃子が顔をそらした。 その顔がほんのり赤いように見えて、ふと視線をおろして自分が璃子の手首を強く掴んでいるのに気づいた。 「……すみません」 離すと、璃子は掴まれた手首を少しさするようにしながら立ち上がった。 「雑賀くん、急に倒れたんだよ」 会社のフロア端に据え置かれているソファから体を起こした。 先輩社員たちが仕事の集中が切れた時に寛ぐソファだ。 「さっきまで君を運んでくれた井関くんたちもいたんだけどね。さすがに君起きないから」 「……すみません」 少し頭を振ってはっきりさせた。 ぼうっとしているのは、やはり疲れが蓄積しているのに、眠れないせいもあるのだろう。 「あのさ、雑賀くん、君、ちゃんと寝てるの?」 「……あまり」 はあ、と大きなため息をつかれた。 「あのね、体が資本なんだよ、仕事というのは。頭ばっかり使う仕事でもね、基本は絶対体なの。体が健康じゃなきゃ、頭だって健康じゃないの。ぶっ倒れた後で言うのもなんだけどさ」 返す言葉もない。 視線を床に落とした。 「君が頑張ってるのはわかってるんだけど、やっぱり、もう一つの仕事と兼業は無理があるんじゃない?」 璃子は諭すようにそれまでの声音とは違って穏やかに言った。 「……知ってるんすね」 「まあ社長はじめ、管理職はみんな知ってるよ。うちはベンチャー企業だからまだその辺は緩いけど、普通の会社なら絶対許されないとこだとは思うけど」 「迷惑だけはかけないようにしていたつもりだったんですけど」 「迷惑ねえ……。まあいいわ、とりあえず、帰れる? 確か鎌倉だっけ、家」 「はい」 時計はもう11時を過ぎている。 鎌倉までは帰れたとしても、江ノ電の終電には間に合わない。 駅からのタクシーも遅くなればなるほど、江ノ電の終電を逃した帰宅客でつかまりにくくなり、かといって鎌倉駅から自宅までの1時間を歩いて帰るほどの気力もない。 今日も榊の家にいくしかないと思った時だった。 「ま、体辛いならうち来てもいいけど。五反田だし」 驚いて、璃子を見た。 碧からそむけたその横顔は少し怒っているようで、でもわずかに自分で自分の言葉に動揺しているような複雑な表情をしていた。 思わずいったいどういう意味か、つい相手の顔をじっと見ていると、璃子は慌てたように手を振った。 「誤解しないでよ、体辛そうだしさ。別に他意はないから」 「……じゃあ、甘えさせてもらいます」 頭をさげた。 いくら上司とはいえ、女の部屋に男が泊まるその状況が何を意味するか分からないわけではない。 でもそういうこと以前に、本業を終えてから対応する撮影などで続く寝不足から、気力も体力も限界だった。 なにより、もはや聞くことさえできない彼女の真意をひたすら想像しては、自分の中で消化できない歯がゆさにどうしようもなく疲れていた。
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