置き去りにされた想い

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璃子の部屋は五反田駅からけっこう歩いた目黒川沿いのマンションにあった。 2DKの部屋は璃子の雰囲気からは少し予想外に思ったより女性らしい雰囲気だった。 さりげなくレースのカーテンは薄いピンクで、あわせたようにカーテンも柔らかなピンクのせいか、部屋全体が淡く優しい雰囲気だ。 そういえば彼女は自分の部屋に来たことはあっても、自分が彼女の家に行ったことはなかった。 せめて一度くらいは行ってみたかったなと、目の前の部屋を見回しながらぼうっと考える。 「なに、玄関で突っ立ってるの、入って」 少し急かされるように促されて、「お邪魔します」と言いながら靴を脱いだ。 璃子から漂う柑橘系の香りが少し強く鼻先をかすめた。 「適当に座って。辛ければ横になっててもいいよ」 璃子はそう言いながらキッチンの方へ入っていった。 リビングを見回して、とりあえず2人がけのソファに座ろうとして、そこに洗濯物だのが積み重なっているのを見つけて、毛足の長いラグの上のクッションのそばに座った。 「うわ、ごめんね、あはは」 コンビニで買ってきた缶ビールとコップ2つ、それからペットボトルの水を両腕に抱えてやってきた璃子が慌てて碧の目の前のローテーブルにそれらを置くと、ソファの上にあった洗濯物を両手で抱えてリビングの隣の部屋に入っていった。 戻ってきた璃子は、ローテーブルを挟んで碧の前に座ると、缶ビールを開けた。 「雑賀くんお酒強かったよね、でも今日飲むには、体きついかな?」 「いや、いただきます」 頭をさげて、目の前の缶ビールに手をのばした。 少しマスクをずらしかけて、目の前で璃子が喉を鳴らすようにしてビールを飲んでいるのを見てなんだか呆気にとられた。 「……すごい飲みっぷりっすね」 「あはは、仕事から帰ってのこの時間がたまらなく好きなのよ。おっさんみたいで恥ずかしいんだけどさ」 笑い飛ばす璃子に、思わず笑うと、璃子はふと真顔になって碧を見つめた。 「あのさ、ずっとマスクしてるけど、飲む時くらい外さない? つうか、それってやっぱり、もう一つの仕事のせい?」 「まあ、そんなとこです」 「へえ、モデルも大変だね。ね、ちょっとさ、顔ちゃんと見せてくんない?」 璃子が身を乗り出した。 参ったな、と思う。 基本的に人にマスクの下の顔をモデルの仕事以外でさらすのは苦手だった。 唯一の例外は、彼女の前でだけ、だ。 「いいじゃん、ちょっとくらいさ」 部屋まで失礼しておいて、嫌だというのもどうかと思いつつ、視線を合わせないようにしつつ渋々マスクを外した。 すぐになんらかの反応が返ってくるだろうと思っていたのに、少し経っても璃子からはなんの反応もない。 さすがに顔をあげると、璃子がハッとしたようにかすかに視線を外したのがわかった。 そのほおがビールのせいとは言い難いほどに赤くなっていて、そうなるのが分かっていた碧は内心ため息をついた。 そういう反応を見たくないからあまりマスクを外さないのだ。 でも彼女は、マスクを外しても、きれいだとは褒めてくれたけれど、それは普通に誰かの何かを褒める時と変わらないトーンだった気がする。 「そういやさ、雑賀くんは、彼女いないの?」 「あー……、なんか別に興味なくて」 あの人以外、ほしくない。 興味ももてない。 「今どきの子だねー。淡白。そんなんだと、人生損する気がするな」 「そうっすかね」 ビールを飲み、ふと璃子の缶ビールが2本目になっていることに気づいた。 「剣崎さん、飲むペース早いですね」 「そうかなー」 うふふ、と楽しそうに笑みこぼれている。 酔っ払い始めているのだと分かって、いつまでつきあえばいいかと思わず頭で計算した。 缶ビールなら500ml缶で3本は余裕の碧にとって、350mlで2本めで酔われるとなると、少し置いてきぼりを食った感じになってしまう。 「でもさ、ちょっとこういうシチュエーション、楽しいよねー。だってイケメンモデルの子と自分の部屋で飲んでるなんて、普通の女の子ならもう一発で恋に落ちちゃうよね」 「そんなもんですか」 「そんなもんです。あ、でも私はもう女の子って年じゃないから、安心してー」 璃子が笑いながら手を振った。 その手に缶ビールを持っていたのを忘れていたらしい。 その弾みに缶ビールから液体がこぼれおち、ブラウスにかかった。 「あちゃー……。ちょっと着替えてくるね」 缶を置いて、璃子はふらつきながら立ち上がった。 危ないなと少し気にして碧も立ち上がった。 「大丈夫っすか」 「大丈夫だってー。こんくらい平気だって」 へらへらと笑いながら璃子がリビングを横切りかけて、ぐらりと体を傾けさせた。 「わわわ」と何かをつかもうと手をばたつかせた璃子に瞬発的に駆け寄って、手を掴んだ。 その反動で璃子が逆に碧にしがみつき、そのまま支えきれずに、慌てて璃子を怪我させないように受け身をとった。 ぐるりと視界が反転して、それでも璃子の体の重みの勢いで軽く後頭部を打った。 一瞬視界が暗くなった向こうで璃子が「いったあ……」と呻く声が降ってきた。 痛みに軽く顔をしかめながら目を開けると、璃子が覆いかぶさるようにしていた体を起こすところだった。 「ああもう……ごめんね、雑賀くん、平気……」 気遣いの言葉を口にした璃子が自分が碧に乗っている状態なのに気づいて、一瞬、動揺するようなそぶりを見せた。 「大丈夫、」と言いながら体を起こそうとした碧の胸を、璃子が軽く手のひらで床に押し付けた。 「剣崎さん」 璃子の目がどこか潤んでいる。 やっぱりこうなるのか、とどこか醒めた気分で体から力を抜いた。 「……ちょっと、エッチな気分になっちゃって、……ねえ、しよっか?」 言いながら璃子が碧のマスクを外そうと手を伸ばしながら、顔を近づけてきた。 それを軽く避けながら、ぐっと腹に力をこめて体を跳ね起こすようにした。 そのまま璃子を逆にラグの上に押し倒した。 カンナが言うように、20代そこそこの男子の性欲は抜かなければ溜まる。 彼女を最後に抱いてからどれくらいたったか。 だから男の体は素直に反応する。 その体の欲求とは別に、彼女の感触を残す何かを誰かに上塗りされるのは嫌だと感情が反発する。 嫌だけれど、互いに性欲を発散させるだけの関係ならばいいだろう、なんて都合のいい考えもよぎった。 割り切ってしまえばいい。 「……いいんすか、いちおう部下、ですけどオレ」 「本当はマズイんだよねー……」 そう言いながらも璃子が腕を首に回して引き寄せてきた。 キスを求められていると分かって、さりげなくマスクを少し下にずらしてそうなる前に顔を璃子の首筋に埋めた。 柑橘系の香りが鼻をくすぐった。 彼女は、こんな香りをさせたことはなかった。 舌先で璃子の首筋を愛撫すると、シャワーの浴びていない女の肌がかすかに塩気を感じさせた。 彼女は、シャワーを浴びていようと浴びてなかろうと、いつだって舐めればどこもかしこも甘くて。 裾から入れた手で探るその肌も、こんなに熱くはなかった。 手におさまらないほどに重量感と弾力で押し返してくる胸も、彼女のは。 体の下で璃子がかすかに喘ぐように口を開けた。 何をしているんだろう。 醒めた自分が、ひどく冷たい目で自分を、そして璃子を見下ろしている気がした。 ーーー。 「……やめよっか、やっぱ」 頭の上の方から聞こえた璃子の声に、璃子のスーツ姿からは予想外に豊かな胸から顔を離した。 「誘っておいてなんだけど……」 碧の下から体をずりあげるようにして、璃子が抜け出した。 そして碧がたくしあげたブラウスをおろし、すぐそばに放り投げられたブラを拾って手の中にぎゅっと押し込めるように握りしめた。 しわくちゃになってしまったブラウスはどこか間抜けで、放心したような気分で璃子をみあげた。 そして思わず視線を伏せた。 ひどく傷ついた顔をしていた。 「雑賀くん、全然、その気じゃない」 璃子はそう言うとため息をついて、乱れた髪を手ぐしで整えた。 図星だった。 どうしても熱くなれない。 男としての本能は体をそのとおりに反応させはしたものの、どうしても芯が冷えていた。 「……雑賀くん、好きな人いるんじゃないの? ……なお、って人」 息を止められたような気がした。 「会社で気を失ってた時に、かすかにその名前、呼んでたから」 カッと顔が熱くなるのがわかった。 なのに口をついて出たのは「別に、違います」という否定の言葉だった。 「それでもいいけど……でも、雑賀くん、今私を誰かと比べていたでしょ」 「……っ!」 「それ、かなり傷つくよ」 唇を噛み締めた。 璃子に相当失礼なことをしたと気づいたものの認めるのはひどく自分の浅ましさを突きつけられるようで吐き気がした。 「まあ、同じチームだし、変なことになるのもあれだから、いいんだけどね」 半ば自分で自分に言い聞かせるような言葉に、碧はさらに目を伏せた。 「とりあえず布団用意するから雑賀くんはリビングで寝てね。シャワーは適当に使って。バスタオルは出しておくから」 璃子が立ち上がった。 「そしたら私は小一時間、外の空気吸ってくるから、……できれば、その間に寝ててくれると、ありがたいかな」 弾かれたように顔をあげて「剣崎さん」とすでに向いていた背中に声をかけた。 「……ま、いちおう女として見てくれたことだけでもいいかな」 「剣崎さん、オレ」 「そもそも、君、病人だった。忘れてたわー」 振り返った璃子は笑顔で肩をすくめると、リビングの隣の部屋に入っていった。 このまま璃子の部屋で休ませてもらうことに抵抗を感じて、立ち上がった。 ちょうど璃子が布団を抱えて出てきたところだった。 「帰ります」 「え? ちょっと、だってこっから鎌倉って、いくらなんでも」 「すみませんでした」 「ま、待って待って。いくらなんでもこの時間に君を放り出すわけないでしょ」 布団を置いた璃子が革靴を履きかけた碧の腕を掴んだ。 「いや、なんとかなるんで」 頑固に拒むと、不意だった。 背後にわずかな風を感じた気がした直後。 「……ってえっ!」 バシッと思い切り後頭部を何か固いもので殴られ、一瞬、目の奥が光った。 「あのね、いいからおとなしく寝てなさい! 会社でまたぶっ倒れられたら、私にも、君を運んでくれたほかの子たちにもすっごく迷惑なの! とにかく今はまず寝る! いい、これは上司としての命令!」 すごい剣幕で怒鳴られ、思わず一歩身を引いた。 璃子は仁王立ちして怒りで顔を赤くしながら鼻息を荒くしている。 その腰にやった片方の手には少し厚いプログラミング関係の教本がある。 「わかった!? わかんなきゃ、また殴るよ!」 「は、い」 迫力に押されて、思わず頷いた。 「わかったならよろしい。とりあえず、リビングに布団置いたから、自分で敷いて。ほら、さっさと、う、ご、く!」 また教本を振り上げられかねない。 慌てて片方突っ込んでいた革靴を脱いで、リビングに戻った。 ローテーブルとソファを少しずらして、おとなしく布団を敷いた。 その間も璃子は玄関に近いドアのそばに立って睨みつけている。 おとなしく言うことを聞いた方がよさそうだ。 内心でため息をついたものの、変な空気がいつのまにか消え、何もなかったことにホッともしていた。 自分の情けなさを突きつけられて、空虚な気分ではあったけれど。
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