1332人が本棚に入れています
本棚に追加
目の前のドライカレーが三分の一残ったまま少し乾燥し始めている。
それを榊が嫌そうな目で何度か見てくるのに気づいていたものの、スマホに映し出したカンナのメッセージに視線を固定したままだった。
スプーンで口にして、なんとか咀嚼して飲みこむ。
桜庭、花。
この前、カンナがお持ち帰りした女の名前だ。
そしてその下にあるもう1人の名前をじっと見つめた。
一ノ瀬、颯佑。
たぶんではなく、確信していた。
彼女の夫の名前。
「……なんか、企んでないよな?」
ふいに思ったより近い位置から声がして、思わずビクッと肩を揺らした。
顔をあげると、榊が心配そうにカウンターを挟んで正面にいた。
「人聞き悪いこと言わないでくんない?」
スマホを置いて、残りのドライカレーにスプーン突き立てる。
ちょうどその時、店のドアが開いて、舞い込む一陣の風のようにカンナがするりと入ってきた。
「おつかれー」
軽く頷いて挨拶を返すと、カンナは碧の隣に座ってドライカレーをちらりと見た。
「榊さん、僕にもこれー。あと、生」
これ、とドライカレーを頼んで、カンナは差し出された水を「あっつい」と言いながら一気に飲み干した。
「で、どうだったー? 僕の聞き取り力」
「最高。マジで。カンナさまさま」
運ばれてきたカンナの生ビールに、半分以上飲んでしまったハイボールのジョッキを軽く合わせた。
「で? どういうことになんの?」
うきうきしたような顔でカンナが身を乗り出してくる。
「一ノ瀬颯佑って男は桜庭花の上司。でも颯佑は浮気してて、その相手がこの女」
碧は紙ナフキンにさらさらと2人の名前を書いて、女の名前の方をペンでこつこつと叩いた。
「颯佑って、そのアオの……凪音ちゃんだっけ、その人の旦那なわけだよね?」
「そのはず。撮れた?」
「もーうバッチリ! 何枚かあるよ。その人で間違いなければ送るよ」
鼻を膨らませるように自慢げな顔をして、カンナがスマホの画面を碧に見せた。
そこにはちょうどビルから数人で出てくるスーツ姿の一群が写っている。
その中央に、骨格のしっかりしていそうな上背のある男が笑いながら大股で歩いている。
自信に満ちた、まさに仕事も家庭も充実していると言わんばかりのいい男だ。
そして、その男はまさに江ノ電の鎌倉駅で、彼女に声をかけてきた人物だった。
さらに指で横にスワイプして別の画像を見る。
男はふと何かに気づいたように、こっちに視線を寄越している。
どこか嫌な目だと思った。
そして次の画像には明らかにこっちを見て片手を上げながら笑みを見せている。
これを撮影したカンナの隣に誰かいるのだろう。
「よく撮れてんね」
拡大したその顔を見ながら言うと、一緒に覗き込んでいたカンナが「まあねー」と笑った。
「花ちゃんみたいな子って、腹黒だけど意外にわかりやすいんだよねー。モデルが迎えに来てるなんてさ、周りに一番アピれる絶好のタイミングじゃん? そうなると不用意なっつうか余計な一言も出るじゃん?」
「隣にいるの?」
「そ。働いてる姿見てみたいから、帰り迎えに行ってもいいかって」
「で、」
「本人は最後まで否定してたけど、花ちゃんの元カレ見せてって甘えたらあっさり。言ってることとやってること矛盾しててかわいいの」
カンナは思い出したのかくすくす小さく笑った。
女のしたたかさや計算高さ、そしてそこからほの見える矛盾さえもこの男にとってはかわいいという一言で片付けられるらしい。
「なんか上司だけど、すっごい口説かれて仕方なく少しつきあったんだってさ。でもあれは別れてないね。一瞬こっち見た時の男の顔、ヤバかった。ああいう男って、一度自分のものにしたら、とことん執着する。できる男だからね」
砕けた笑顔でこっちを見るその顔。
自分の部下と浮気をして、彼女を泣かせた男。
そしていまだに彼女の隣で澄ました顔をしているだろう男。
「で、いまさら知ってどうすんの? もうフラれてんでしょ? 意味あんのー?」
「フラれてないし、意味なんてあるよ。大あり」
「へえ?」
カンナの目が猫のようにきゅうっと細くなった。
最初にカンナを知った時、その目はどこか相手の腹を見透かすような怖さもあって苦手だった。
でも今は真剣になる時の目だと知っている。
カンナは普段女の子大好きのチャラい男のふりをしてはいるけれど、かなり頭がキレる。
「ちょっとお前ら、いったい何を話してるんだ」
カンナのドライカレーを片手に、榊が眉をひそめて立っている。
「え、凪音ちゃん奪還作戦」
「カンナ!」
言うなと口止めしていたのに、カンナは忘れていたのか榊にけろっと言い放った。
とても楽しそうに。
思わず額をおさえた。
「アオ、お前……」
榊はそう言ったきり黙り込んだ。
榊自身が彼女に会いに行ったあの日から、榊はしきりに碧に忘れろという言葉ばかりを繰り返してきた。
それに反発しか覚えていなかったけれど、表面的にはおとなしくしていた。
このまま言い逃れてもいいが、榊相手にこれ以上迷惑や心配もかけられない。
ため息をつきながら榊に向き直った。
「おっさん」
「……なんだ」
「もし、彼女が幸せなら潔く身を引く。でもそうじゃないなら、オレはオレの直感を信じたい」
「相手は人妻だぞ。へたすりゃ裁判もんだ。そんなことになったらお前のモデル生命は終わりだ。スポンサーはそういう色がついた商品が一番嫌いだ。いいか、広告の世界ではいわゆる売りたいモノも商品だが、お前のようなモデルも同じ商品だ。不味いと評判が立った新しい食いもんに、誰が金を支払う? そんなこと言わないとわからないか、お前は」
「わかってる」
「わかってない」
榊がカンナの前にドライカレーを置いた。
どん、と軽く力の入った置き方に榊の苛立ちを感じ取る。
でもカンナはしれっと「いただきまーす」とスプーンをカレーにいれて、動じた様子もない。
「いいか、アオ。お前のその発想は、ケツの青いガキの発想だ。裁判沙汰にでもなってみろ、お前のそのイメージで商品を売ってきたスポンサーに迷惑をかけるということは、お前にかけてきた、お前の周りの人たち、そして同時にお前が大切にしたいものすべてを裏切るということだ」
榊が身を乗り出した。
「お前の恋路を邪魔したいわけじゃない。でも、ようやくお前はモデルとして波に乗り始めたんだ。この先もこの世界で生きていきたいと考えるなら、あの人のことは諦めろ」
「できない」
「女は別にあの人だけじゃない。この先、彼女よりもっといい人が出てくる。なぜ、まだ20そこそこのお前が彼女1人だけに決めるんだ。もっと遊んでもっと周りを見ろ」
「おっさん、彼女じゃなくてもいい理由なんていくらでも転がってる。でもこの先、彼女しか好きになれない理由もはっきりしてるんだ」
「なんだ」
「オレがモデルの世界に飛び込む決心をつけさせてくれたのがあの人だからだよ。背中を押してくれたのは。彼女がいなければ、オレはきっとここにいない」
「……高校の時とかいう?」
「彼女は覚えてないと思うけど」
「だからってなあ……」
「……オレにとっては大きいんだよ。でもそれ以上に、好きだっていうのに理由なんてない」
氷が溶けて薄くなったハイボールを飲み干す。
彼女はきっと江ノ電で乗り合わせたのが出会いだと思っているだろう。
でも本当は自分がそれこそ高校生の、周りすべてに苛立ち腐ってたガキの時に会っている。
でもそんなのは覚えていなくてもいい。
社会人として、堂々と彼女の前でしていられる自分をこそ見ていてほしい。そう思っていたのに。
「アオ、でもお前、モデルやってることも言ってなかったんだろ?」
一瞬、言葉につまる。
「……言いたかったよ。つうか言うつもりでいたんだよ。あの日、全部」
時間はあると思っていたのに。
「まさか、……あの人のためにすべて捨ててもいいとか思ってないだろうな?」
榊の声が低く響いた。
一瞬ドキッとして、少し気持ちを落ち着けてから榊の顔を見た。
考えたこともあった。
彼女の手を掴んで、江ノ電で藤沢まで出て、それから北か西か、電車に乗ってどこまでも行って、行き着いた先で2人暮らせばいい。
そんな、幸せで愚かな夢を。
でもそれをしたら。
「でもさーそんなことしたら、凪音ちゃんの方が辛くなるよねー」
不意にのんびりしたカンナの言葉が空気を破るように響いた。
「なんで」
反射的に反発してしまった。
「だって、彼女年上だよね? 30過ぎてるんでしょ? 20代がどんな時期かを経験してきたり見てきたりした年齢だよね。しかも働いてる人ならなおさら。で、アオがモデルとして駆け出したばかりって知っちゃったんだよね? しかも本人の口以外からで。それ知って、アオの未来を自分の存在が奪うことになるって、すごく残酷じゃない?」
ざわっと背中に悪寒が走った。
カンナはスプーンで最後の一口のカレーを食べて、礼儀正しくごちそうさまと手を合わせた。
「たった1人だけにそんなに心砕けるのって、僕にはできないからすごいと思うし、だからこそ今回のも引き受けたんだけどさ。でも僕は、アオよりもどっちかっていうと、その凪音ちゃんの方の気持ちが分かる気がするなー」
カンナを見ると、カンナはそのままのトーンに続けて榊に「なんか適当に辛いのつくってー」とアルコールをオーダーしている。
榊が話をしている時にという渋面をつくりながらも、渋々背後に並ぶリキュール類に視線を走らせた。
「アオの話聞いてるとさ、アオはその凪音ちゃんのおかげで今の立場がある。でもそれを失わせるのも凪音ちゃんの存在だってことになるんだよね。アオが今の仕事、モデル、あとSEだっけ? そのどっちでもいいけど、嫌で嫌で逃げ出したいってんならまあいいけど、そうなの?」
「え、いや……別に、まあ、おもしろい、といえばおもしろい」
「うん、だよね。少なくともアオを見てると、少しずつだけどモデルの仕事にやりがいみたいなのを見出し始めている気がしてたから」
よく、見てる。
はじめの頃は、人に見られて撮影されて品定めされて、とにかくたくさんの人の視線が絡んでくるようで窮屈だった。
でも今は違う。
ただ自分というとびきり個性も強くない存在が、誰かの購買意欲にスイッチを入れるきっかけになって、その商品が売れていく。
SNSやインターネット、そして街頭広告や駅貼りの広告の、自分のビジュアルを通じて。
「アオは自分を犠牲にしてもいいと思ってても、凪音ちゃんは、そんなアオに感謝はしても、同時にずっと負い目を感じ続ける人なんじゃないのー?」
指先から冷えていくような感じがした。
いや、指摘される前から気づいていたのかもしれない。
ただ……見たくない事実に。
「アオはさあ、好きだーってまっすぐだし、それはアオのいいとこなんだろうけど、でもそれだけでなんとかなるほど世の中甘くないしさ。ましてや凪音ちゃん、人妻なんでしょー。その人を本気で奪いにいくなら、やらなきゃなんないこと、ちゃんと分かってるー?」
言い方は軽い。
でも図星だ。
痛いほどに真実だった。
ただ駄々をこねてどうにかなってるなら、こんな状況に陥ってない。
「ま、あの旦那見たところ、仕事かなりできそうだけど、その分なんかヤバそうだし? あっちの方も自己中っぽそうだけど」
含み笑いをして、カンナは榊がつくった白濁したカクテルに口つけて、かすかに眉をひそめた。
「きっつ。アオの場合、幸いなことには、その旦那も脛に傷もってんだしー、そういう意味ではうまく立ち回ればイニシアチブとれんじゃない?」
「とはいえ、リスクが高すぎる。反対だ」
黙ってカンナの言うことを聞いていた榊がやっぱり頭を振った。
その榊の言わんこともわかる。
誰よりアオを心配して、それでここまで導いてきてくれたのも榊がいてくれたのも大きい。
それでも譲れないものがある。
碧は榊に向かって頭を下げた。
「おっさん。たった一度でいい、凪音さんに会いたい。もう一度だけ、もう一度だけ彼女との間に橋渡ししてほしい」
「な……何言ってる! ごめんだ。それにオレが手を出すのもこの前一回きりだと言ったはずだ」
「お願いします」
「彼女だっていい迷惑だ。アオ」
「モデルの仕事は疎かには絶対しない。でもあの人のことは今しかもうチャンスない。オレがこの先、モデルの仕事をやってくなら、まだ誰もオレに注目してない今しか」
カンナが口笛を軽く鳴らした。
「……お前……、たいそうな自信だな。そんなふうに自信ばっか肥大して潰れるモデルなんて掃いて捨てるほどいんだぞ」
「そうかもしんない。でもオレに商品としての価値を見出して賭けてくれた社長やおっさんや、みんなを信じるし、オレも自分を信じる。その上でやれること全部やる。そのためにも、もう一度、チャンス、ほしい。お願いします」
カウンターに額をこすりつけんばかりに頭を下げた。
もう一度だけ、会って確かめたい。
一度でいい。
会えば、きっと。
「榊さん、行ってあげたらー。一度やったら、二度も三度も変わんないでしょー」
カンナが応援してくれる声を背中に感じながら、深く頭を下げ続けた。
時が経てば経つほどに取り返しがつかなくなる、そんな気がして必死だった。
最初のコメントを投稿しよう!