その先が、見えないまま

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その先が、見えないまま

強い光量で体は熱い。 繰り返されるシャッター音に合わせて、顔の角度や視線、体の向きなど少しずつポーズを変える。 じわりと服の中で汗が滴り落ちた気がしたけれど、あくまで涼しい顔で巨大な送風機の方に体を向けた。汗をかいたモデルなんて話にならない。 はためく服を軽く抑え、軽く顎をあげた。 「すみません、いったん休憩お願いしまーす」 「メイク入らせてくださーい」 カメラマンのアシスタントとヘアメイクの声が聞こえて、撮影現場の空気が一瞬時間を止めて、それからゆるゆると解けるように動き出した。 無言でシャッターを切っていた短髪の痩せぎすな男はそのままカメラと連動しているPCのモニターの方へと歩いていった。 今人気急上昇中の写真家だと紹介された近衛然という男はとにかく寡黙で、注文なんて1つもない。 ないということはつまり、自分で考えて動けということだ。 まだ経験の浅い自分、という言い訳を封じ、ひたすらカンナに教わったポーズをたたきこんで臨んだけれど、果たしてできているかは分からない。 今の自分ができる努力はしても、それに見合った対価が支払われるわけではないのが、人気商売の悲しいところだ。 いつのまに来ていたのか、スタジオの壁近くで厳しい目を投げていた社長の澤崎が環に二言三言囁き、それから環とともに近づいてきた。 ヘアメイクの女性が軽く汗を抑え、それから化粧直しをし終えたところで、スタイリストの男性が動きでできた皺を整える。 その間に、「アオ」と声をかけられた。 「おつかれさまです」 頭を下げると、澤崎は年齢相応の目尻のシワなど感じさせない笑みで婉然と微笑んだ。 「頑張ってるみたいね」 「まだまだです」 「そういう言葉が出るなら、まだまだなのね。じゃ、もっとできるという心意気見せてほしいわ」 50を過ぎているという澤崎は、その年齢を感じさせない美貌を武器にしつつモデルエージェンシーをたった1人で立ち上げて、たった1人でアオやカンナなど50人のメンズモデルを抱えた事務所に成長させた女だった。 「やります」 短く返すと、澤崎はにっこり頷いた。 やるかやらないか、それしかない。 やれるか、ではない。 そんな中途半端な答えは、澤崎も環も、そしてこの現場の中心である近衛も求めてはいない。 目の前の社長にどんな小さなことでもいいから仕事をくれと頭を下げたのはほんの数日前。 それですぐに、スポンサーを見つけて、人を撮らせたら右に出るものはいない、その人が知らない自身をさらすといわれる、人気絶頂の写真家近衛然とのコラボを企画としてもちあげた。 その企画の実現のスピードの速さに内心、澤崎だけは決して敵に回したくないと思ったのもあったが、正直、聞いた時は、小さなものではなく、むしろこれまでの碧の実績からしたらド派手で最高にでかい花火だったことにも度肝を抜かされた。 「ま、期待してるわ」 旧知の知り合いである榊からおそらくいろいろ聞いているはずだろう。 それでも何も言わない。 どんなリスクを腹のなかに抱えているかわかっているだろうに、そのことをおくびにも出さない懐の深さに今はただ仕事で返すしかない。 「すみませーん、然さん入りまーす」 また撮影が始まる。 そう思って、社長と環と別れ、さきほどの位置に戻りかけた時だった。 「その前に」 よく通る声が響いて、それが近衛の声だと気づくまで数秒かかった。 それまで指示するにもアシスタントを通じてで、口にこもる声だったからだ。 「モデルの人」 呼ばれて、一瞬それが自分だとは分からなかった。 名前すら、覚えられていないと気付いて、一瞬、ピリッと自分の中で沸いた闘志を抑え込む。 「オレ、ですか」 「ほかに誰がいんの?」 マヌケな答えにも淡々と返した近衛は笑顔などファインダーの隙間に落っことしてきたような無表情さだ。 「なんで、顔見せられない?」 「……それは」 顔をなるべくあからさまに写しはしない。 それがアオのモデルとして活動する時の条件だった。 本業が別にある、というのも理由の1つだったが、本来ならそんな売り出しはしない。 無名のモデルをそんな売り方しても、よほどうまく売込まなければただの使いにくいモデルとしてしか見られない。 でも澤崎はおもしろいという一言でそれを許した。 一面はたしかにそれで成功した。 アオというモデルはプライベートも素顔もミステリーだという若い女性に支持されたからだ。 でもモデルに仕事を絞ろうと考えつつある今、それが果たして意味があるのか。 「なんか明確な意味、ないの? なければ、顔出し許してほしいんだけど、澤崎さん」 アオの意志ではなく、近衛は直接近くでおもしろそうな目で現場を見つめていた澤崎に顔を向けた。 澤崎が赤いルージュの唇に艶やかな笑みを乗せた。 「どうする、アオ。あなたの判断に任せるわ」 あきらかにおもしろがっている。 内心で唇を噛み締めたくなりながら、近衛を見返した。 この世界で圧倒的に近衛の方が格上だ。 断れるのか。 断るならそれなりの理由で周りを納得させろということだ。 澤崎がアオに判断を委ねたのはつまり、目の前の近衛然という写真家とのタッグでどこまでアオというモデルの魅力を、いや、新しい面を引き出せるのか試したいからだろう。 それが顔をほとんど隠した写真でも隠さない写真でもいい。 おもしろい。 しょせん自分の顔なんて、いくら綺麗だと言われてもモデル業界にあれば月並みだ。 ならばその挑発に乗ってやる。 「わかりました。構いません、潮時だと思っていたんで」 かすかに現場の空気が揺れたような気がした。 環が横の澤崎をちらりと横目で見た。 澤崎は両腕を組んで婉然とした笑みを浮かべたまま動かない。 「じゃ、戻って」 近衛はなんの感情も含まずにそう短く言うと、自分のカメラの前に戻った。 目の前の黒いホリゾントが敷かれた自分のステージにあがる。 スタジオの中で、なんの背景もない。 そこで飾るものなんて何もない。 勝負できるのは、素の自分しかない。 カメラの前に立って、フードを後ろに倒し、ハイネック型のトップスの前のジッパーを大きく開けた。 近衛がカメラのそばにスタンバイした。 その手があがる。 カメラのレンズを睨みつける。 守りたいと思うほどのモデルの自我なんてものはない。 その代わり、彼女ともう一度会って、そして自分から彼女を奪うすべてのものに対抗しうる力だけを手に入れる。 そのための、この体、この手足、この顔だ。 美しいと不特定多数の口が好き勝手に評する、自分の武器だ。
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