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目の前に座ったスーツ姿の男に、妻に逃げられて悄然としている様子は一切なかった。
まるで営業の仕事にでも来たつもりか、どこか余裕さえ感じられる愛想のいい笑みを浮かべ、「トークショーの時ぶりだ」と言った。
そのふてぶてしさに、それなりにいろんな人間を見てきた環も一瞬開いた口が塞がらないという顔をした。
「そちらの美しい方は? 写真家のトークショーで凪音とともにいたのをお見かけしたような」
視線が環の隣で優雅に腕と足を組んで椅子に背中を預けている澤崎に移った。
「彼の雇用主の澤崎です」
場の雰囲気をものともせずに、婉然と微笑む。
その言葉に、颯佑が軽く目を見開いて、立ち上がった。
「これは失礼。申し訳ない、名刺を持ってくるべきでした」
「あら、交換させていただいたところで、次に繋がらない名刺など紙くずでしょう? もっと有用な相手にお使いくださいな」
相手を魅了するような美しい笑みはどこか凄みを帯び、口調は柔らかいが言っていることも辛辣だ。
つくづく敵には回したくない人だ。
颯佑は蛇に飲まれたカエルのように硬直していたものの、すぐに気を取り直して椅子に座った。
そして穏やかな表情で両手のひらを組んだ。
「今日アオくんを訪ねたのは、これまでのことを詫びようと思ってなんだ」
警戒心が強まる。
「詫びる?」
「凪音のことで裁判を起こしたり、マスコミを巻き込んで君を追い詰めたり。挙げればキリがないかもしれない。でもこれもマスコミにとってはおもしろい暇つぶしのネタにしかならない。このままでは、共倒れでしかないんじゃないかと思ってね」
いまさらどんなツラを下げて、そんなことを口にするのか。
何が目的か見えず、不安を押し込める。
「まあそうは言っても信じてもらえないだろう。だからこうして会いに来た。本来は裁判を起こした以上、接触するのは弁護士であるべきところをね」
含みをもたす言い方に引っかかりはしたけれど、どういうことかよく分からない。
「つまり弁護士を介さず、ということは、裁判を取り下げたあるいは弁護士に無断でのどちらかですよね?」
環の言葉に颯佑が頷いた。
「裁判は中止したよ。お互いにメリットなんてないからね」
だからなんだというのだ。
「メリット? そんなものはじめから考えてないっすよね? 目的はなんですか? 凪音さんはあなたのもとには戻りません」
「アオ」と環が嗜める。
「そんなつっかかってこないでくれ。悪かったと思っているんだ」
かすかにしょげた様子を見せながら、颯佑はちらりと環や澤崎に視線を走らせた。
「申し訳ないんですが……できれば、アオくんと2人で話をさせてもらえませんか?」
「それは厳しいですね」
すかさず環が断る。
「いちおうモデルという商品でもあるので、これまでのあなたの言動を踏まえると、2人きりにするのは許可できません」
傷をつけられては困る。
はっきりした態度に颯佑が息を吐いた。
「そうですか……。男2人で腹を割って話せればと思ったんですが、やはり無理ですか?」
そう言って颯佑は今度は澤崎を見た。
「できればきちんと2人で話をさせていただき、和解させていただけないでしょうか? 大事なことです。僕は、凪音と離婚してもいい。そう思っているんです。彼女の気持ちが離れてしまったとしても公的には妻です。夫として最後に、きちんと義務を果たしたい。どうか、アオくんと2人で話をさせていただきたい」
姿勢を正して、澤崎に向き合った颯佑の真剣な態度に、環が沈黙し、澤崎が足を組み替えた。
「……いいでしょう。アオに何かあったら、こちらもそれ相応の手段をとらせていただきますね」
にっこりと笑いながら釘をさして澤崎が立ち上がった。
環が目線で碧に少し部屋の外に出るよう促した。
応接室を出てドアを閉めると、環が向き直った。
「スマホで録音だけはしとけ」
「了解」
「愛想はいいけど、だいぶコンプレックスを抱えていそうね。凪音さんも厄介な男に見込まれたものだわ。和解だろうと他の申し出があろうと、決して鵜呑みにしないでちょうだいね」
「わかってます」
澤崎と環に小さく頷いて、再び応接室のドアを開けた。
その向こう、窓のシェードの光を軽く背にした男が、ゆっくりと顔をあげて碧を見た。
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