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「腹を割ってなど、いまさら無意味でしょう?」
イスに座るなりそう言うと、颯佑は悲しそうな表情をつくった。
「そう言わないでくれ。オレは本当に、凪音のことを君に譲ってもいいと思っているんだ」
「譲るとか、凪音さんはモノじゃない」
「そうか、そうだな。悪かった」
素直に頭を下げる目の前の男の魂胆が見えず、気持ち悪さと居心地の悪さが募る。
「それでなんでしょうか? 凪音さんと離婚してもらえるんですか?」
一線を引きながら正面から切り込むと、颯佑は小さくため息をついた。
「離婚したくはないんだよ、本当は。君にも凪音にも、信じてもらえないかもしれないが、凪音のことは本当に愛している。初めて会った時、まあ君も知っているだろうけれど、いろいろ事情があってね、政略結婚のような形だったかもしれないが、それでも会った時、本当にこんなきれいな可愛らしい女性がオレの妻になってくれるんだろうかと思ったのも本当だ。いまさらかもしれないが、凪音のことは大切に思っている。だから、君のことを本気で彼女が愛してるなら、オレは身を引いてもいい。そう考えるようになったんだ」
だからなんだというのだろう。
黙って聞いていると、それに気をよくしたのか、颯佑はさらに凪音への想いを語った。
でもその間中、小さな音がしていることに気づく。
などうやら、颯佑は片足を小刻みに揺らしているようだった。
それがおさまる気配もなく、しばらく黙って颯佑の話を聞かされ続ける。
まさか滔々と、凪音への想いを語りにきたのでもあるまい。
さすがに20分にもひたすら聞かされ、我慢も限界にきた。
「すみませんが、オレ、別にあなたの凪音さんへの想いを聞きたいわけじゃないんで、はっきり言ってもらえませんか?」
遮るように言うと、颯佑は水を差されて口をぽかんと開け、それから一瞬、その明るく陽気だった顔に激しい苛立ちをのぞかせた。
この男は裏表が激しい。
こうして目の前でいくら低姿勢を保っていても、腹の中でアオという人物に対して怒りや恨みや憎しみをどれほど抱いているかしれない。
そんな顔つきだった。
冷静さを失わないようにしながら、颯佑を淡々と観察する。
「……オレはね、ちゃんとウィンウィンの関係でいたいんだよ」
「ウィンウィン? オレにとっては離婚した凪音さん。それであなたは?」
「君は頭の回転も早い。ならわかるんじゃないか?」
「……一ノ瀬ウェブシステム、ですよね?」
「ご名答! そう、あの会社は今度、上場する予定だ。祖父である現会長がおこした。父が祖父の拡大路線を守り、順調に収益もあげている。でもまだまだあの会社は大きくなる。ようやく国内での地位を確立できつつある。ならオレの番は、世界が相手だろう。特に中国はまだまだ眠れる獅子だ。中東という手もあるが、その辺のマーケ的な分析はその時になって考えるが、なんにしても、AIやIoTでどんどんやれることは広がっている。今の会社での営業もおもしろいが、祖父の会社であれば、ヒトと世界がつながる仕組みそのものを変えられる。おもしろいじゃないか。凪音には、社長夫人として控えていてほしかったし、彼女の経理的なセンスは買っていたんだが」
その会社が不正に塗れていたことが知らないわけでもあるまい。
「会社を動かすための駒なら、何も凪音さんじゃなくてもよくないですか。結婚の条件がなんだろうと実力があるなら、3代目社長の座につくなんてわけないでしょう。結局、凪音さんに頼らなければ社長の座にすらつけないってことじゃないすか。そんなん、社長になったところで、その会社が世界に進出しようとなんだろうとたかが知れてやしませんか?」
図星だったのだろう。
颯佑の顔が能面のように表情を失った。
「……言ってくれるじゃないか」
言い過ぎたかと思ったものの後の祭り。
でも間違っているとは思わない。
「まあ君のような芸能界などというナンパな職業についてる人間には、会社を経営し、社会の中枢で経済を動かし、人間が生きるこの世のシステムそのものを変革させていくことのおもしろさなど理解できないだろう」
「バカにしている芸能人が世の中のブームや動きをつくりだしたり変えたりすることがあるということを忘れてませんか? 何がおもしろいかおもしろくないか、そんな主観的な価値観で人をはかるなんて浅はかですよ。まあ、そういう価値観で言うなら、オレにとって一番大事なのは凪音さん、次に支えてくれる友人や職場の仲間たちです。それを犠牲にしてまで為さなくてはならないものがあったとしても、それは、オレにはどうでもいいことです。あなたのような人がやればいい。邪魔する気もない。でもあなたが、オレを、オレの大切な人たちを傷つけ損なうことがあるならオレは絶対許しません」
颯佑を見据えたままそこまで言うと、颯佑はおもしろそうに唇の端を歪め、肩を震わせるように笑った。
「いやあ、若いなぁ。そういう熱さに凪音も絆されたのかな? まあいい、君とオレが相容れないことはよくわかった。凪音のことに話を戻そう。君のような前途ある男ならなおさら、経歴に傷をつけるのはもったいないね」
「いい加減、回りくどいのやめませんか? 和解しにきたというなら、オレがその条件としてあげられるのは、凪音さんと離婚して、今後一切、凪音さんには近づかない。関わらない。それだけです。約束してもらえませんか?」
「足りない」
「は?」
「だからさ、ウィンウィンであろうよ。君ばかり要求しているじゃないか」
言いたくない言葉を引き出される。
悔しさを押し殺して、それが、何かを聞いた。
ーーあんたの、要求は?
「君が手に入れたことは知ってる。一ノ瀬ウェブシステムに関する情報、書類、すべて出してもらいたい。それがオレからの条件だ」
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