その先が、見えないまま

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いいように口車に乗せられたような気がしなくもないが、それでも心地いい疲れが手足の先まで覆っている。 その気だるさとともに、窓の外を流れる極彩色の光から、高層ビルをタイルのように彩る白色の光を見つめた。 隣に座る澤崎はひたすらスマホで電話したり、膝上のタブレットでメールを打ったりと忙しい。 撮影現場に立ち会ってくれたのは、本当に忙しい合間を縫ってのことなんだろう。 そう思うと頭が下がる。 「あら」 澤崎がタブレットを見ながら驚いたように声をあげた。 そっちに目をやると、澤崎が思案顔をしてから運転席の環に声をかけた。 「環くん、アオのスケジュール、少し無理きくかしら?」 「全然、大丈夫です」 即答した環の物言いは、まるでアオのスケジュール帳がモデルの仕事で埋まるなんてことがないと言い切ったようでおもしろくない。 「アオ、喜びなさい。近衛くんからのご指名」 「は、い?」 「あなたをもっと撮りたいって」 「え、えええ?」 近衛は撮影が終わるまで、あの撮影再開の時のほかはアオに話しかけてもこなかった。 そういう意味ではアオの名前さえ覚えてないだろうと、少し、いやけっこうショックでもあった。 「あーやっぱり。近衛さん、目の色変わりましたもんね」 環の言葉に二度驚いて、思わず体を起こした。 「気づかなかったのか?」 全然気づかない。 見ていたのは近衛じゃない。 ずっとカメラのレンズの向こうだ。 彼女を掴もうと手を伸ばす自分を押し戻そうとするなにか。 対峙していたのは、それだ。 「近衛くんを本気にさせたのは上出来だわ。あの子、ニューヨークが拠点なのよね。だからスケジュールも今日のあの時間にねじ込んだのよ」 近衛をあの子呼ばわりできる澤崎のネットワークに気づきながらも、胸の奥でふつふつと沸き起こってくるものがある。 「後半のアオはよかったわ。自分をさらけだしてぶつからなければ、ああいう写真家は応えない。 商品をいかにウオンツに結びつけるかに力点を置くコマーシャル的な世界もあるけれど、純粋に写真という虚像を通して被写体と撮影者がそこにお互いそれまで知らない一面を結実させられるのもおもしろいものよ。 アオ、自分の知らない自分が写っていたんじゃない? 熱心に近衛くんが撮った自分の写真、見てたでしょう?」 言われて思い出す。 撮影が終わって近衛はサムネイルをざっと確認していた。 それを後ろからのぞいた時、そのノートPCの画面に写っていたのは、それまでのモデルアオとは違うアオだった。 ミステリアス、個性的、雰囲気がある、どこか色気がある、透明感。 そんな言葉で飾られてきたアオが、むきだしの敵意でその向こうをのみこまんとする激しい目をしていた。 あれは、アオという名前で動いてはいるけれど、まぎれもなく碧だった。 25年も生きていない自分のまだ曖昧な核みたいなものをむき出しにした。 「あなたが、あんな獣のような目ができると思ってなかった。でもその奥にどうやっても拭えない影……そうね、哀しみというか、母性本能をくすぐるなにかがある。そんな目を自然にできる子はそうそういない。そしてそれは女の心を掴むわ。アオ、あなた、くるわよ」 澤崎の言葉に口の中が干上がっていくような気がした。 視線を感じて目をあげると、運転席のミラー越しに後部座席を見た環の目と合った。 その口元が不敵に歪んだ。 澤崎からのお墨付きは、社内のモデルたちが欲している言葉だとはカンナから聞いていた。 「オレが……?」 そう言われたところでいまいちピンとこない。 「まあ、そのうちわかるだろ。でも、もう1つの仕事は辞めどきだ」 さらりと重要なことを言われて、環を見た。 上に行きたいなら二足のわらじなんて甘いことを考えるなという環の言葉が蘇った。 運転のハンドルがカーブをきって、事務所が入る低層の洒落たビルが見えてくる。 「そこは環くんとよく相談なさい。ただ、モデルの仕事はもっとおもしろくなるわよ、アオ。一流の人間たちとつきあうことが増えれば、仕事はより刺激的になるわ」 事務所の前に車が止まり、さっと環が運転席から降りて後部座席に回った。 ドアを開けて澤崎が降りるのを軽く手伝う。 ごく自然に男から差し出された手をとり、立ち上がる澤崎によどみはない。 碧も降りようとすると、環が制した。 「アオ、お前は別に送ってく」 てっきり事務所に泊めてくれると思っていた碧は戸惑ったように環を見た。 「鎌倉は遠いわ。こっちに部屋を用意したのよ。地方から来たほかのモデルの子たちにもしてることだから遠慮しないで、引っ越してきなさい」 澤崎は艶やかにそう言うと、環の礼に見送られながら事務所に入っていった。 自分の知らないうちにいろんなことが決まっていく。 用意された事務所から徒歩10分の1DKの部屋には備え付けの単身者用家電が一式。 ベッドももちろんあり、窓にはブラインドもかかっている。 澤崎の趣味なのか、それとも寮として用意された部屋はすべてそうなのか、モノトーンの雰囲気で統一されている。 水も電気も使えるし、すぐにお風呂にも入れる。まるでホテルのように不足など何もなく見えた。 当面足りないのは、本業に必要なスーツくらいだった。 鎌倉から引っ越せ。 本業のSEを辞めろ。 それが環の意向だった。 相談の余地がないことは薄々わかっていた。 自分が望む方向に行くならば、それなりの代償が必要だということも。 でも、そうするほどに彼女がこの手のうちから砂のようにこぼれてしまうんじゃいかという不安が拭えない。 普通という世界から逸脱すればするほどに、普通の世界にいる彼女が遠くなる。 その不安に押しつぶされないうちにと、碧は部屋を出た。 榊のところで軽く飲みつつ腹に入れよう。 そう思い立って、徒歩15分ほどの狭い路地を歩く。 恵比寿に住んで一番の利点は、バーイドラが近いことかもしれない。 なんとなくふと口元に手をやって、習慣だったマスクを忘れていたことに気づいた。 どうせすぐそこのバーに行くのに必要ないかと思い直しながら店がちらほら立ち並ぶ通りに出てきた時、視線を感じた。 ふと見やると、2人の若い女性がちらちらと見てくる。 肩を寄せ合って口が「アオ」と動いているように見えて、まさか、と思った。 思ったそばから、2人が往来を突っ切って碧の方を目指して歩いてくる。 マスクがないからとそこまで面が割れているとも思えない。 戸惑っているうちに、2人は「すみません、モデルのアオさんですよね?!」と顔を紅潮させて話しかけてきた。 同世代か少し年下かくらいの女性は2人は、目をキラキラさせて身を乗り出さんばかりにきゃあきゃあと騒いだ。 その勢いについのまれて頷いた。 「え、あ……はあ……」 「やっぱり!」 恥じらいと嬉しさで笑みこぼれている2人の女性は顔を見合わせた。 「あの、雑誌モデルの頃からファンなんです!」 「スニーカーの広告、すっごいよかったです!」 口々にモデルのアオを褒めちぎり、それから「握手してもらえませんか?」と恥ずかしさとともに問いかけた。 「それはまあ……」 差し出されて、握手すると、2人はまた黄色い悲鳴をあげた。 「あの、あの、よければ、一緒に写メとか……」 2人の喜びっぷりに圧倒されつつ、流れ的に言い出されるだろうと思ったことに「すみません」と頭をさげた。 「写真は苦手なんで……」 モデルなのに苦手もあるかと内心つっこみつつも、2人は深くは追及せずに「こっちこそすみません!」と手を振った。 「あの、じゃあ、ちょっと」と頭をさげると、2人は「はい!」とテンションが高いまま頷いた。 「ずっと応援してます!」という言葉にまた頭をさげて、なんとなく尻のあたりがかゆいような居心地の悪さとともにイドラへと歩き出した。 海外の人気メーカーのせいか、街頭に大きく張り出された広告写真の評判は環から聞いていた。 今はすでに第2弾の写真に切り替わっているはずだけれど、まさか街頭で声をかけられるほどに反響があるとも思っていなかった。 どこか気持ちが落ち着かない。 それがこの先の自分の歩く道に対してなのか、それとも、自分の見えないところで自分が歩き出してしまったことに対してなのか、今はまだよくわからなかった。 スマホをとりだして、環と共有している仕事のスケジュールを開いた。 週末はほぼモデルの仕事だ。 それが少なくとも半年は続く。 本業が定時であがれる日にも仕事をいれられないかという打診が出てきてもいる。 すべて受けるとメッセージをいれた。 望むところだ。 自分を武器にすると誓ったのだから。 そう思っているのに、なぜ、こうもちぐはぐな気分が纏わりついて離れないのだろう。 何も見えない霧の中で彼女を求めて別の方向にばかり足を向けているような、そんな曖昧さばかりが胸の底で澱のようにくすぶっている。
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