その先が、見えないまま

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視界にバーイドラの木の扉が入った時だった。 すぐそばの路地の方から話し合う声が聞こえた。なにげなく通り過ぎた。 「もう、花、待つの疲れちゃったの」 名前に聞き覚えがあって、行き過ぎた足を止めた。 「そんなこと言うなよ……。オレには花が必要なんだって。花がいてくれるから頑張っていられるんだよ」 男の声にも覚えがある。 そっと足を忍ばせて、曲がる路地の角に身を寄せた。 他の通行人やその路地にいるであろう2人に身バレしないように顔を俯かせ、スマホを手にして、スマホに集中している振りをしながら聞き耳を立てる。 「嘘ばっかり。最近、いろんな接待とか成瀬さんに回して、家にまっすぐ帰ること増えてるし、前ほど連絡くれないし……。花が気づいてないとでも思ったー?」 「……それは、悪かったよ。でもさ、オレには花が一番、大事だってのはわかってほしい」 「口ばっかり。残業ばかりの奥さんをわざわざ待って一緒に帰ったりしてて、花がどれだけショックだったか分かってない」 「だからごめん、って。今、家庭でいろいろあってさ、あんまりおろそかにできないんだよ」 「……だからって花のこと疎かにしていい理由にはなんないしぃ。どうせ、颯佑さん、奥さんのこと惜しくなったんでしょ? 成瀬さんが本気出すみたいだから」 「ちょ、なんだよそれ。なんで急にここに成瀬のことが出てくんだよ」 「知らないっ」 拗ねた声で花がそう言ったと同時に、ドアを開け閉めする音が聞こえた。 「なんだってんだよ……」 呟く声の主をそっと伺うと、手前の洒落た焼き鳥屋の居酒屋の前で前に見た彼女の夫が大きなため息をついてスマホを取り出していた。 「もしもーし、凪音? オレ。今日あれだろ、産婦人科、行ってきたんだよな? どうだった? できてた? ……ああ、そっか。そうだよな。わかってるって。今度は、一緒に行くよ。この前おふくろにきつく言われたし。だって凪音だけの問題じゃないんだからさ。 あとさ、今日ちょっと午前様でそっち帰ることになりそうだわ。今? ああ、晩飯買いに、コンビニ近くだからうるさいんじゃないの? うん、まあ無理はしないって。つうか無理できないって、週末は凪音との夜のために体力残してんだからさ、あはは、冗談だって、おっさん臭くて悪かったな。 つうか、うん、声聞いて少し元気出た。頑張るよ。うん、じゃ、……あーあのさ、最近、うちの部の成瀬とか、いや、なんでもない。ごめん、おやすみ」 スマホをもつ手が震えているのを必死で抑え込む。 何から整理すればいいのか分からない。 頭の奥はひどく沸騰して、激しく心臓が打っている。 すぐそこにいるのは、彼女の夫。 ふらつきそうになった足を動かさなくてはならない。 でも動かない。 まるで足元の地面が崩れ落ちていくのをただ黙って見おろし、落下するような感覚さえ覚えた。 「アオ? なにしてんのー? そういや聞いたよー。然さんに撮ってもらったってー。すごいじゃーん!」 顔をあげた。 「ちょ、なにその顔。気分悪い? 大丈夫? アオ?」 目の前に慌てて近づいてきたカンナの腕を思わず掴んだ。 「うわ。こわっ。なんだよ……って、ほんとマジ大丈夫?」 「……サンフジンカ、て、なに?」 「へぁっ?」 すっとんきょうな声に反応もせず、地面を睨みつけた。 普段は耳慣れないその言葉が、今は殺人的な威力を放って目の前に立ちはだかっていた。 カンナに連れてこられるようにして、イドラに来ても、肌の下をざわざわと大量の虫が蠢いているように気持ち悪い。 頼んだドライカレーも半分以上皿に残したままだった。 「無理して食わなくていいぞ」 どこか哀れむ声音すら笑い飛ばせない自分の不甲斐なさに歯ぎしりしたくなる。 店に入ってすぐ、榊に聞いた。 サンフジンカってなにか。 開口一番の質問に、榊はギョッとしつつ言った。 「産婦人科って、女性が妊娠のことや女性特有の病気だのでいく病院だが……なんだ急に」 「そこに男も一緒に行くことあんの?」 「アオ、本気で知らないのー?」 カンナの言葉は聞こえなかった振りをする。 「男が一緒に行くってことは、まあ妊娠したか妊活してるかだろうな……なんでそんなこと聞きたいんだ?」 榊の声もカンナが話しかける声も耳に入らなかった。 彼女と、あの男が夫婦であることはわかっていた。 男が今も浮気していることも知った。 なのに、なぜ彼女に妊娠なんて言葉が関係してくる? 「……もしかして、凪音ちゃんのこと、かな」 「でも産婦人科って、……まさか」 「さっきそこにあの人の旦那がいた。浮気相手のあの女と。まだ全然、浮気してんの、あの旦那。なのにあの人に電話して、嘘ついててさあ、なのに産婦人科に行くとか行かないとか言ってた。 なんで? なんでそんなことになってんの? わかんねーよ。浮気する旦那の子供、つくりたいもんなの? 妻だから? そんなんで、子どもも、あの人も幸せになれるの? 女って、そう割り切れんの? そういうことってあり?」 いろんな感情が沸騰して、自分の思考もちりぢりなのはわかっていた。 彼女が子どもをつくろうとしている事実。 本当に望まれているのかわからない子ども。 「アオ、落ち着け。お前の母親はろくでなしかもしれんが、世のすべての女性がそうなわけじゃない。もし一ノ瀬さんがそうすると決めたなら、それは、並ならぬ覚悟の上のはずだろう?」 「だからってオレ、……オレ、わかんないよ。まだ、あの人が会いたくないってのも何か理由があるとか、そう……思ってた。あの人が、あんな180度態度変えるとか、そんなの信じらんなくて、まだ今も信じらんなくて」 止まらなかった。 自分の中から見たくなかった現実が溢れて止まらなかった。 「アオ」 「落ち着け、少し冷静になれ」 「オレ、なんでこんな、こんな……」 言葉がなかった。 なによりも、彼女は自分から去ったのだという現実に向き合えていなかっただけか。 目を伏せていただけか。 「ほんとに、あの人にとってオレ……。あの人、オレの気持ちわかってるはずなのに」 過ち、という言葉で片付けられてしまうのか。 会うほどにお互いに愛しさが募って、会うほどに彼女の気持ちが深く流れ込んできたあの事実は、スマホでたった2,3行程度の言葉で済ませられてしまうものなのか。 それきりで、本当に終わりか。 この身も心も、モデルの仕事で名をなせばと誓ったのも、たった1つの願い、たった1人のためだというのに。 「おっさん、会ってくれた? もう会いたくないなら会いたくないでいいよ。でもちゃんと、彼女から直接、ききたい。聞きたいんだよ。オレ、終われない。このままじゃ、全然、」 すがるような声だとわかっていてもとめられない。 「そのことは……会おうとしたんだが」 「が?」 「何度かは鎌倉に足を運んだ。でも……たぶん旦那さんだと思うんだけど、一緒に男性がいることが多くて、なかなか声かけるタイミングなくてな。たぶん、気づいてるんだと思うんだが、連れの目を気にしてか避けられてるみたいで……」 無様な姿を晒すとわかっていても叫びだしたい衝動を、幾度も幾度ものみくだす。 つい先日、あれほどに必死だった気持ちが、絶望の淵へと引きずられていく。 「アオ、直接自分で会いに行きなよ」 ふいにカンナがいつもよりトーンの低い声ではっきり言った。 「……っ、会えない」 「なんで?」 「彼女がオレには会わないと言った」 「聞いてる。でも、それで諦める? アオ、終われないって言ってるけど、違うでしょ。フラれたって事実を、ただ受け止められないだけでしょ」 「カンナ」 榊がたしなめるように呼んだ。 でもカンナは碧をまっすぐ見て、容赦なく言葉を続けた。 「直接聞きたいとか、それもう、逃げだよ。榊さんに会わないって言った時点で、アオ、フラれてるよ。スマホでばいばーいで終わる恋なんて、そこらへんにいっぱい転がってんじゃん。認めたくないから、そうやって榊さんに頼んで、自分は鎌倉に直接会いに行きもしない」 「違う!」 「違わない。アオ、無様すぎるよ。中途半端だよ。そりゃ、鎌倉に行けば凪音ちゃんの思い出とかいっぱいあんのかもしんないけど、だからなに? そんなんで、凪音ちゃんに会ったところで、同じことの繰り返しじゃない?」 カンナの言葉のいちいちが、胸に突き刺さる。 「もう認めなよ。現実は、フラれた。だから、……凪音ちゃんは、旦那さんとの間に子供をつくって、家庭を、家族を、築こうとしてる。改めて旦那さんと関係を結ぼうとしてる。浮気続行中の夫にそこまで義理立てみたいなことしてる理由はわかんないけど、なんか、アオより凪音ちゃんの方が必死に見えるよ。目の前の現実にさー。……ま、本人に会ったことないけどねー」 何も言えなかった。 カンナの言葉に言い返す何も、碧の中にはもっていない。 「帰る」 ふらつく体を支えるようにして立ち上がり、榊が止める声も流して店の外に出た。 その場にいたたまれなかった。 たまらなく辛かった。 カンナの言葉も、彼女が榊に伝えた言葉も、見たくなくて目を伏せてきた。 会えなければ、確かめることさえできない。 待てというならいつまでも待つ。 でもその覚悟さえ、もたせてくれない。 そう自分を騙して、ただ、ただ、彼女を追いかけて。 ふいに鼻の奥がつん、として、一気に涙がほおを伝い落ちた。 慌てて俯きながらそれを乱暴に拭った。 彼女は、もう自分を忘れて新しい日々へと歩み去っていく。 本当に、まるで海の藻屑のように彼女との時間が消えていく。 ふいにスマホが鳴った。 画面を見ると璃子からだった。 こういう時だからか、あの日、璃子の部屋で嗅いだ柑橘系の香りと、そしてそこにあった柔らかな感触を思い出した。 もう、いい。 もう、誰でもいいから。 画面をタップすると、〈雑賀くん?〉とはきはきした声が聞こえてきた。部屋にあがって未遂に終わってから、璃子はまるで何もなかったかのように変わらず接してくれていた。 それはとてもありがたかった。 でも今は、ほしかった。 誰でもいいから、自分の身のうちをのたうつ絶叫をぶつける相手を、それを癒やしてくれる相手を、誰でもいい、ほしかった。 「剣崎さん」 最低な気分と動悸とを抱えて、ふらふらと歩く。 〈急にごめんね、明日の打ち合わせ、急だけど同行できない? 高野くんが熱出しちゃったって連絡きて。取引先のね、聞いてる? 雑賀くん?〉 「剣崎さん、今日、これから部屋行っていいすか?」 〈えっ……え、あ〉 激しい動揺が伝わってくる。 でも碧の足はすでに恵比寿の駅に向かっていた。 もはや日付も変わりかけているこの時間、璃子が部屋にいないわけがなかった。 そしてこの時間に男を部屋に入れる意味が分からないほど、互いに子供でもない。 〈……いいよ〉 スマホの音声を通して聞こえてきた声は、少し震えて、でも、艶めいていた。
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