揺らぎ続ける青い炎を抱いて

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失ったものの多さを思えば、倫理に反した恋など、するものじゃない。 でも何かを失うたびに、その手を何度も繋ぎ直して心を寄せ合い積み重ねてきた時間は、長さで測れるものではなく、むしろ濃く、愛しい。 その大切なものを奪われるくらいなら、ただ守るべきもののために何を敵にしても正面から立ち向かうしかない。 例え、その先に未来が見えなくても、絶望しかなくても、その手を繋ぎあう強さだけを頼みにして。 窓の向こう視界いっぱいに広がる滑走路を、大型飛行機がゆっくり旋回し、加速しながらやがて飛び立っていく。 その軌跡を残しながら広がる大空は高く、青く、澄んでいる。 後ろから呼ばれて振り返った。 ほかに仕立てのいいスーツを着こなし、ラウンジのソファで新聞やノートパソコンを広げる姿の男が何人かちらりと顔をあげた。 ますます透き通るような美しさを身につけ、目を引きつけられると評判の凪音が立っている。 妻として母として、そして女として愛されている自信がそうさせるのか、内面からのオーラはいつもそばにいる碧でさえハッと目を見張ることがあるくらいだ。 今でも周りの男の視線を浴びているのに、本人は気づいていない。 ひたむきにその視界に碧だけをとどめている。 それがどんなに男心をくすぐられるか。 「そろそろ搭乗時間になるよ」 凪音が柔らかく微笑みながら、窓の前のソファから立ち上がった碧の前まで近づいてくる。 そして手をのばして碧のサングラスをとった。 サングラス越しじゃなく目を合わせたいと言わんばかりのしぐさがかわいく、そして周りの男への牽制を含めて腰に両手を回して引き寄せる。 「(かい)は?」 「アヤカさんがみてくれてる。すごいぐっすり寝てたよ」 「そっか。このまま向こうに着くまで寝ててくれるといいけど」 「フライト時間長いから、それは難しいんじゃないかなあ……。なんか、離着陸のときの気圧の変化とかで大変みたいで」 「泣くね、それ……。大人でもたまにきついもんがあるし」 「でもアヤカさんもいてくれるから」 「あの人もちゃっかりしてる。向こうでエージェンシーと打ち合わせ、とか言ってるけど、その後しっかりバカンスとってんだよ」 「でもアヤカさん、海外での子育て経験もあるし、こうして一緒に行ってくれるから慌てないでいられるの。だいぶありがたいんだよ?」 「ま……それは認める」 言いながら凪音の首筋に顔を埋めて息を吸う。 このかすかに甘く爽やかな匂いも自分のもの。 「ちょ、やだこんなとこで。恥ずかしいから」 周りを憚って小さな声で抗議しながら、凪音が上体を反らし胸に手をついて離れようとする。 きっと耳まで真っ赤になっているに違いない。 でもその顔がまた色っぽく、そういう顔をさせられるのは自分だけなんだと自慢したい、というのもある。 そんな(ひと)がオレだけのものなんだと。 日本では、自分が不倫で騒がれたモデルであることも、凪音がその相手であることも関心をもった人にはバレている。 狂騒の日々は落ち着きを見せたけれど、たまにうるさい時もまだある。 「こんなとこだからだよ」 「ここ日本なんだよ?」 「じゃあ向こう着いたらいい? もっと、エロいの」 離れつつ耳に囁く。 恥ずかしさと期待とで胸を高鳴らせた凪音が「へんたい」と顔を背けた。 「変態上等。櫂が生まれてから凪音さんになかなか触れらんないし。もうオレ欲求不満でどうにかなってますから」 不満を甘えるように言うと、凪音は「……わがまま言わないで」と赤い顔を背けて、その赤さを隠すように碧から奪ったサングラスをかけた。 「ね、そろそろ行かないと」 どこか遠くの地からやってきた飛行機が滑走路へと高度を落として滑り込んでくる。 それを視界の端に捉えつつ、離れて歩こうとする凪音の腕を掴んで引き寄せた。 「碧くん?」 どうしたかと振り返った凪音の腰に両腕を回して軽く閉じ込める。 「しばらくは日本に帰ってこれない、……いい?」 「どうしたの、急に」 今さら何を言うのかと、凪音はおかしそうに小さく笑う。 「オレの都合ばっかりで、凪音さんにはいろいろ苦労かけてるから、後悔しないかな、って」 「……後悔?」 凪音が少し思案げに眉根を寄せた。 その様子に不安になる。 櫂のことを考えれば、凪音と櫂の2人を日本に残すという選択肢も、ないわけではなかった。 「……後悔したことなんて忘れちゃった」 「え?」 「今ここにいるの、私の意志だから」 ニューヨークに行く日取りが決まってからの凪音は、ものすごい勢いで国立の実家も、鎌倉の家も、可能な限り整理した。 泣いて泣いて、泣き声に看護師が駆けつけても泣き枯らすまで泣き続けたあの日。 泣き止んだ彼女は、しばらく放心した後、ふいに必要なら弁護士を通してでもそうすると言った。 それが彼女なりの、けじめだった。 頼もしさを感じつつも、ニューヨークでの親子3人での生活に凪音が不安を覚えていないわけがない。 望んでいたことは、あの日からもう10ヶ月以上経ってもいまだ答えは出ずに宙に浮いたままだ。 「でも、離婚はまだ……」 弁護士を通して送った凪音の署名入りの離婚届は、あの男からは戻らない。 「うん……。それはもう、仕方ないって思ってる。櫂は法的には、彼の子。あの人があと1年以内に自分の子じゃないと訴えない限りは……。だから逆にその分、碧くんに辛い思いをさせることも出てくるし、櫂にも、いずれ大きくなった時に普通ならしなくて済む想いをさせてしまうかもしれない。後悔するなら、そのこと」 「そんなの、後悔しなくていいよ。法的には父親になれなくても、あなたが日本では妻として認めてもらえなくても、向こうでは制度も違うだろうし、いい方法があるかもしれない。なによりさ、実際、オレが実の父親だし。だから、父親として……あなたの伴侶として認めてもらうためにあらゆる手段を尽くすよ。あなたは、誰がなんと言おうとオレの奥さんだから」 「ありがとう。その気持ちだけで、私には十分。でも碧くんはモデルなんだから、そういうことは私に任せてくれればいいの。大事なことはちゃんと伝えるし」 「たくましいね、オレの奥さん」 「ふふ、じゃなきゃ、碧くんの隣に並べないわ。それに、櫂が、今はいるから。だから碧くんには、もっと世界を見て、世界に通用する仕事を思いっきりしてほしい。私は妻としてそれを支えていたいし、櫂もそんな父親の背中を見ていたら、他のことはきっと小さなことになるわ」 凪音が手でほおに触れた。 その手に手を重ね、ゆっくり顔を近づけ、額と額を合わせる。 「それにね……生きてる以上、後悔なんてなくならないもの。この先もたくさん後悔しながら、それでも碧くんのそばにいたい。それが嫌なら、私、はじめから碧くんに溺れた自分をとっくに恨んでる」 「溺れた、って」 くすくすと楽しげに開き直る凪音に苦笑する。 「溺れたの、オレの方なんだけど?」 「奇遇ね、私もよ?」 「そう? でもオレは今でも溺れたまま」 甘く囁く。 「本当?」 凪音が甘えるように聞き返す。 「ほんと。もう、ずっと」 「嬉しい」 「溺れて息ができなくなるくらい」 「くらい?」 「あなたを愛してる」 凪音がその澄んだ瞳を輝かせながら深く満たされた笑みを浮かべた。 その微笑みを欲するように、碧は重ねた凪音の手を軽く握りながら、顔の角度をわずかに変える。 そしてそのままそっと唇を合わせる。 凪音がそれに応えるように顔をかすかに上向けた。 触れ合う唇はかすかに濡れて、交わされる吐息も、少し甘い。 誰かがわざとらしい咳をした。 思わず唇を離して、目を合わせる。 凪音が「やだもう、ついノせられた」と恥ずかしげに笑った。 「いいじゃん、どうせなら見せつけたい。この国出ちゃうし、誰が見てても何を言っても……」 言いながら凪音のサングラスをとり、それからもう一度顎に手をそえて上向かせる。 視界の端で、コンシェルジェのスタッフが注意しようかどうしようかと困惑したような表情でいるのが見える。 しかめ面する男性も、好奇心と羨望の眼差しを送る男性も、ちらちらと視線だけで気にする女性も。 誰に、どう見られようと。 凪音のかすかな抵抗を体を引き寄せて閉じ込めながら。 今度は深く、溺れるほどの、キスをした。
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