エピローグ 5年後

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エピローグ 5年後

「凪音、凪音! すごい! 僕と同じ人がたくさんいる!」 「同じ人、ってそりゃ日本なんだから。つうか暴れんなら自分で歩け」 「パパには言ってませんー。だいたい、僕は凪音に抱っこしてって言ったのに」 人に抱っこされておきながらつんと顔を背けた息子の櫂についムッとする。 すかさず凪音が碧の腕に触れてくる。 「櫂、わがまま言わないで。ほらアヤカさんも迎えに来てる」 「あ、アヤカさん!」 腕の中で体をよじって手をばたつかせる櫂をもてあまして、思わずその場に降ろした。 5歳を迎えつつある櫂は、小さく伸びやかな手足を動かして、到着ロビーで手を振る澤崎の元へ駆けていく。 「まったく、誰に似たんだか」 「私じゃない」 すかさず凪音がそう言い、思わずトランクを積み上げたカートにぐったりと伏した。 「え、オレ? なわけないし」 凪音がにっこり笑って、その胸に抱かれてぐっすり眠る2歳の湊斗を緩く抱き直した。 「湊斗、預かろうか?」 「ううん、起きちゃうからこのまま。それよりあの子、櫂のこと」 落ち着きのない長男は、澤崎に丁寧に頭を下げている。 たぶん、お久しぶりです、あいかわらずお綺麗ですね、などとどこで覚えてきたか、ほざいてるはずだ。 自分の息子ながらとにかくませている。 カートを押しながら澤崎に近づくと、見知った顔がソファ・ベンチから立ち上がった。 「カンナ」 「やほー! アオ! 凪音ちゃん!」 碧への挨拶もそこそこにカンナが走るようにして凪音に駆け寄った。 あいかわらず友人よりその妻に興味がある男だと内心苦笑する。 でもその瞬間、澤崎に得意そうに飛行機でおとなしくしてたことなどを自慢していた櫂がムッとしたような顔で碧を見上げた。 「パパ、あの人誰?」 「あー、カンナ?」 「凪音に馴れ馴れしくない?」 「小さい頃に会ってるんだけど、覚えてないか。日本のメジャーな俳優、アクター。賞もたくさんもらってるすごい人」 「ふうん」 明らかに櫂の目が、今にも凪音に抱きつきそうなカンナを不審者のごとく睨んでいる。 「彼にはいろいろ助けられたんだよ、凪音さんもオレも」 そう言っても、どうやら櫂の中では敵認定されたらしい。 ふてくされた顔でじっとカンナを見ている。 ようやくそれに気づいたカンナが近づいてくる。 「わー櫂くん、おっきくなったねー」 「あ、あんまり凪音に近づくな」 「え、あれ?」 櫂の口調が明らかに歓迎しないもので、カンナがきょとんとして碧を見た。 「えー、あれあれー、何、もしかして僕嫌われたー?」 「もしかしなくても」 苦笑しながら、服の裾をぎゅっと握りしめて碧の影に隠れるようにしている櫂の頭を軽く促すように撫でた。 「櫂、挨拶は」 櫂は黙ってつぶらな瞳で唇をひき結んでいる。 「櫂。いい男になるんだろ、ほら、どうするんだっけ?」 もう一度頭をやんわり撫でて促すと、櫂は渋々といった顔で一歩前に出た。 「こんにちは」 「こんにちはー。僕カンナって言って、昔会ってるんだけど、覚えてないかなー?」 「覚えてません」 やたら険のある響きではっきり言われ、カンナが思い切りショックを受けた顔で碧を見た。 自分を見られても困る。 軽く肩を竦めて見せた。 「なんかやったんじゃないの、カンナ」 「え、えええー……」 何もしてないと肩を落とすカンナに凪音も苦笑して近づいてきた時だった。 「すみません」 背後で細い女性の声がした。 凪音とともに振り返ると、そこにいたのは、黒髪を一つ縛りにした化粧の薄い女性がいた。 ゆっくりと頭を下げられる。 「……え、桜庭、さん?」 一瞬の間の後、凪音が目を見開いてそう聞いた。 白のブラウスに黒のスカートというシンプルな格好はどちらかというと地味で、かつて凪音たちを振り回した女性とはすぐには一致しなかった。 カンナも驚いた目で花を見ている。 「突然ごめんなさい。どうしてもお会いしたくて、……少しだけ、お時間……いただけませんか?」 戸惑う凪音と顔を見合わせる。 いつからここで待っていたのか。 もういろんなことが過去になりつつあるのに、こうして目の前にすると嫌な記憶が甦る。 「あの、……彼の、一ノ瀬颯佑のことでお話があります」 どきりとした。 颯佑。 起訴はしない。 罰金刑ともなる略式の起訴もしない。 その選択をしたことで、実質、碧とは颯佑との接点はなくなっている。 だとしたら、凪音のことしか、ない。 思わずカンナと澤崎の方を見て「少し……櫂と湊斗をみててもらえませんか?」とお願いした。 移動した先は、空港内にあるカフェだった。 凪音と並んで座るその正面に、花はかつての派手な面影もなく遠慮がちに座った。 あまり時間をとれるわけでもない。 「それで話というのは?」と促すと、花はバッグから茶色の封筒をとりだした。 そしてそっと凪音と碧の正面のテーブルの上に静かに置いた。 それをとりあげて、中を見た。 1枚の紙。 かつて凪音が署名した、離婚届だった。 颯佑の自筆の署名と捺印がある。 「これは」 あまりにも予想もしなかった書類に、息が止まったような気がした。 「あなたに会うと、まだどうしても冷静でいられないからと、代わりに届けに。……すまなかった、と」 「……あんたが?」 なぜ花がその役回りをしているのかと訝しげにすると、凪音がテーブルの下で碧を宥めるようにそっと膝に触れた。 「受け取ります。……彼に伝えてください。どうぞお元気で、と」 凪音が静かに頭を下げると、花は「きっと、伝えます」と小さな声で返した。 花は立ち上がると、深く頭をさげて去っていった。 「……なんか変わったね、彼女」 「だからって、オレは全然信用してないけどね」 「そうだとしても……」 凪音が言葉をつまらせるようにして離婚届に視線を落とした。 その肩がわずかに震えていて、凪音の頭を胸に引き寄せた。 「……うん、ようやく……終わる」 深い感慨とともに呟き、カフェから見える空港のエプロンに目を向ける。 いくつもの飛行機が並び、搭乗のためにゆっくり動き出す機体もある。 5年。 長かったのか、短かったのか分からない。 ニューヨークでモデルの仕事を定期的にもらえるようになり、今は日本での仕事を入れることが難しいほどに忙しい。 結局、櫂は、颯佑と離婚が成立せず、颯佑が嫡出子否認として自分の子供じゃないと申請しなかったために櫂の法的な父親は颯佑となっていた。 そして2番めに生まれた湊斗もまた。 そのことで不都合がなかったわけじゃない。 でも、と思う。 櫂が澤崎に手をつながれ、湊斗がカンナの腕の中でぐずりだしながらカフェの方に歩いてくるのが見えた。 でもこうして、周りに支えられながら、家族として過ごしてきた。 血がつながっているから、というのだけではない。 ただ凪音を妻として信頼し、母として尊敬し、そして女として愛し、それをまた凪音から同様に与えられる中で築いてきた時間の積み重ね、そこに結ばれた深い絆。 それに守られるようにしてすくすくと育つ櫂と湊斗。 他の人にとって当たり前かもしれないことが、2人には、いつだって当たり前ではなかった。 だから、今、ここに、こうして4人でいられることがどれだけ奇跡か。 「凪音さん、行こう」 鼻をかすかにすすった凪音が小さく頷いて、大切そうに離婚届をバッグへとしまった。 そこに澤崎から離れた櫂が走ってきて、凪音に抱きついた。 「ねえねえ、凪音。カンナおじさんがね、水族館に連れてってくれるんだって!」 目を輝かせる櫂からカンナに視線を移した。 その顔は小鼻をかすかに膨らませて、なんだか得意げに見えた。 「えーほんと? すごいね、櫂、水族館好きだもんね?」 「うん、好きー! クラゲがね、いっぱいいるんだって、イルカのショーもねあるんだって!」 「よかったねー。あの、カンナくん、いいの?」 凪音が少し申し訳なさそうにカンナを見た。 「ほら、僕の株をあげとかないと後々、ね?」 「ね、って、別に点数稼ぐ必要ないでしょ、カンナおじさん」 「あれー、アオ。そんな言い方すんのー? せっかく2人の時間をつくってあげようっていう僕のこの気遣いをさーそういうふうに言うー?」 カンナが目を眇める。 「いいんだよー、別に僕のこの広い心をアオが断ってくれてもさー。それは当人の自由だからさー」 にっこり笑ったカンナになんだか借りを作るようでおもしろくない。 もう50代も半ばを過ぎたはずなのにあいかわらず美貌を誇る澤崎が湊斗をあやすようにしながら「夫婦でたまにはゆっくりしたら?」と微笑む。 子育て経験があるせいか、ぐずりかけていた湊斗はいつのまにか澤崎の腕の中で落ち着いてしまっている。 「……碧くん」 凪音がちらりと碧を見た。 確かに、もうずっと、2人の時間は少ない。 でもそれ以上に、2人の時間が、今は何より必要な気がした。 でも日本での予定はぎっしり詰まっている。 アメリカから凱旋したトップモデル扱いのせいで、取材や撮影が殺到しているからだ。 かつて、嘲笑と侮辱に巻き込んだ日々など忘却の彼方におしやって。 澤崎に向き直った。 「オフ、なんとか、もらえますか?」
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