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裏店から表店に家移りして五年。
ここが二人が決めた終の棲家。
裏店と違って開けるための特別なコツも要らない障子戸。
それをすっと開け土間に入ると、帰り着いた安堵感からか、佐吉が少しだけ疲れを滲ませた声を出した。
「やれやれ、無事終わったな」
「さきっちゃん、おつかれさま」
「れん太もおつかれさん」
上がり框に腰かけ、お互いを労いあいながら足袋を脱ぎ部屋へと上がる。
「今お酒用意するから、座ってなよ」
同じ様に疲れているだろうに、れん太はいつもの様にクルクルと佐吉の身の回りをかまう。
「おめえも疲れたろ、もういいから休め」
「でも、寝酒にちょいと飲もうよ、冷やでいいだろ?」
脱いだ紋付袴二人分を衣紋掛けに掛けながら聞いてくる。
「ああ、ありがとよ」
今宵は灯りを灯さずとも、月明かりだけで相手の顔がよく見える。
佐吉のふわりとした笑顔を見てれん太も笑顔を返す。
佐吉は奥の庭に面した部屋に胡座をかき、月に照らされた庭を見ていた。
用意してくれた酒をちびちびと舐めながられん太がそばに来るのを待っていたのだが、いっこうにやって来る気配がない。
さっき二階へ上がる足音がかすかに聞こえた。まだ上にいるのだろうか。
どれ、と立ち上がって佐吉もトントンと二階へ上がる。三十八になっても、長く大工仕事で鍛えあげられた体、まだまだその動きは軽やかだ。
れん太は案の定二階にいた。
昨日、息子の吉太が使った部屋のひじ掛け窓に腰かけ、体ごと少し捻るようにしてぼんやり庭をみていた。
「どうしたよ?」佐吉が声をかけると、
ああ、びっくりしたと、飛び上がって驚いた。
「おっと危ねぇ、落っこちるぜ」
「さきっちゃんが手入れしてくれた桟があるから大丈夫だよ」
そう言うと柔らかに笑みを浮かべた。
その手には、吉太気に入りの手ぬぐいが握られてた。
吉太が部屋に置いていったんだか、忘れたんだかしたのだろう。
れん太が静かな声で佐吉に話しかけた。
「さきっちゃん、吉太とお紺ちゃんの祝言無事済んで良かったね」
「ああ、お紺ちゃんも綺麗かったが、吉太が殊の外立派だったじゃねぇか」
「そうだよね」
嬉しそうな返事が返ってきた。
「俺たちの自慢の息子だもんなぁ」
佐吉のそれを受けて、れん太も一度は口を開いたものの、咽喉が痞えたようで声がすらっと出てこなかった。軽く咳払いのあと一呼吸してから、
「そうだよ、丹精して育てたんだもん……ね」
わざと野菜かなにかのように軽口の様に言ったが、語尾が震えている。
佐吉はれん太を見て、やっぱりと苦笑いをする。
手拭いで顔を覆って声を殺して泣いていた。
「一人で泣くやつがあるか、ほら」
その肩を、抱き寄せるとその胸の中で
「吉太、立派だったね」
振り絞るようにれん太が言う。
佐吉はれん太の肩をぐっと抱き
「俺たちゃ良く育てたよ。俺がととさんで、お前がちゃん」
それを受け、れん太が続ける。
「前いた長屋のみんながおっかさん」
「だな」
佐吉は、れん太を胸に抱きながら、
吉太がやってきた日もこうして庭を見ていたっけと思い返す。
あれからもう19年、年月ってえのは経つのが早えなぁ。
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