文化四年 梅雨

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職人殺すにゃ刃物はいらぬ 雨の三日も降ればいい 朝から絶え間なく降り続く雨。 裏長屋の一番端の部屋。四畳半一間に付いてる縁の向こうに見える庭とも言えない小さな庭に降る雨を見ながら口遊む。  店賃が安い割に、この長屋には四畳半の先に縁があり、各戸に庭らしきものがある。地主の意向であるとかないとか。まあ何でも良いと佐吉は思う。 夏は蚊やりの煙さえ気にしなければ、戸を開け放せば涼がとれるし、 冬は雨戸を閉めればそんなに寒くはない。そんなには、という程度だが。  独り立ちする時に親方に貰った大工道具の手入れが済めば、佐吉にはもう何もすることがなくなった。手枕でごろりと横になる。  今年十九になった佐吉は、一年のお礼奉公も終わったばかりだが、親方だけでなく方々から声がかかる腕の良い一人前の大工だ。  5尺2寸(160cm)、大工仕事できりっと引き締まった体に一重の涼やかな目元、酷薄そうにもとれる薄い唇が余計に色香を匂わせ、道具箱を担いで歩く姿にぽーっとなる娘も多い。 が、佐吉にはすでに自分の身より大事で大切な人がいるので、娘たちには目もくれない。それが二つばかり下、今年十七になる”れん太”だ。  れん太は十四の年から湯屋で働いており、今年で三年目となる。 いつも暮れ七つ(午後5時位)過ぎに仕事を終える。 去年の春に一緒に暮らし始めてからは、佐吉は仕事でもそうでない日でも、れん太を迎えがてら湯屋に行く事にしている。 その刻限もまだまだ当分だなと目を閉じると、ふっと眠りに落ちた。 雨の中。パシャパシャッと駆けてくるのは、れん太の足音だ。 滅多に()く事の無いれん太の立てる足音に佐吉は飛び起きる。 いつもはすんなり開かない裏長屋のこの障子戸をスパーンと開けてれん太が飛び込んできた。ずぶ濡れのくせに上機嫌だ。 「ただいま、さきっちゃん」 何事かと身構えていた佐吉はその上機嫌さに拍子抜けした。 「お、おう、お帰り、どうした、早えな、一人で帰ってきたのか?なんでぇ、ずぶ濡れじゃねぇか、傘はどうしたよ」 慌ててれん太に駆け寄り手ぬぐいで顔を拭いてやりながら、口からは問いかけばかりが出てくる。 「傘落っことしたら大変だと思って置いてきた」 傘をどこに置いてきたのかは言わず、れん太は 自分が抱く胸元をみた。 見ればそこだけは濡らさぬようにして大事そうに何か抱えてる。 ふにふにと弱い声がした。 さては又猫の子でも拾ってきたなと佐吉は思う。 優しいれん太は、見て見ぬ振りができない。 捨てられた犬猫をしょっちゅう拾ってくる。 佐吉は一度もそれを咎めた事がない。黙って引き取り手を探してやる。 引き取りが決まると決まってれん太は寂しくて泣いてしまう。いっそ拾ってこなければ辛い別れがないだろうにと思うが、それでもれん太はせっせと拾ってくる。  一度何故そうするのか聞いた 「だっておいらが知らん顔していたらあの子たちはひもじくて死んじまう、ひもじいのはいけないよ」 「おいら、寂しいけれどあの子たちが良かったらそれでいい」 時をかけ、たどたどしくではあるがそう言った。 自分の辛さよりも命を繋いでいるのだ。 佐吉はれん太にめっぽう甘い。悪い事が起らぬように目を配り、 喜ぶことはなんだってしてやる覚悟で一緒に住んでいる。 「話しは後だ、早く着替えろ、ほれそれ寄越せ」 佐吉はれん太を着替えさせる為にそれを気軽に受け取った。  れん太は五尺一寸(155cm)中肉中背、くりっとした目で愛嬌のある顔立ちだ。佐吉が気に入っているのは夜の眠そうな顔と朝起きてすぐの顔。 要するにぽや~んとしている顔が堪らなく可愛いと思っている。 いつもなら、れん太が肌を見せると、色白で艶のある肌を好ましく眺め、柔らかな感触を思い出し、俺のれん太はやっぱり綺麗 《きれえ》だと悦に入るのだが、今はそれどころではない。渡された自分の腕の中から目を離せないでいた。
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