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めんどうくさくて
それから数か月経ち、期末テストが終わってしばらくしたころ、家のチャイムが鳴った。親は土曜日も仕事だから家にはいない。宅配便かな、と思ってドアを開けると、みる君が門の前に立っていた。
顔がなかった。
敷石を渡り、門を開けてまじまじと見ても、やっぱりなかった。真っ黒な穴が、顔全体を覆っていた。
「みる君、顔」僕は言った。
「いらなくなったから」口もないみる君から、虚ろな声が出てきた。「もういらなくなったから」
そこで僕は、ようやく気付いた。みる君の真っ白なシャツに、血がついている。胸元に、襟元に、右手の袖口に。ポケットに縫い付けられている校章の刺繍からも、血が滲みだしているように見えた。
「みる君、血が」
「別にいいんだよ」みる君は肩をすくめた。「夢中になったから汚れたけども、これ、二度と着ないんだから」
みる君、ともう一度言いかけて、僕はみる君の脇をすり抜けた。道を渡りながら振り返ったけれども、追ってくる様子はない。開けっ放しの玄関を抜けて、みる君の家に上がり込んだ。血の匂いって、こんなにひどかったんだ。探すものはすぐに見つかった。リビングの真ん中に、みる君のお母さんなのか、血の塊なのか分からないものが倒れていた。首も、胸も、お腹も、何十か所も刺されていた。綿の詰まった人形を無造作に放り投げたときみたいに、手足がおかしな角度になっていて、破れたストッキングの下からうっ血した皮膚が見えた。カールが取れかけた栗色の髪が血でフローリングに貼りついている。ドラマとは全然違うじゃないか、こんなのあんまりだ。
お母さんの歪んだ顔のすぐそばに、みる君の顔が落ちていた。久しぶりに目にするみる君の顔は、前よりずっと大人っぽくなっていて、鼻筋がはっきりして、そして笑っていた。
「考えてみれば」いつの間にか後ろに立っていたみる君が、静かに言った。「これじゃあ、少し気の毒かもしれない」
みる君は僕の横に座って、みる君のお母さんの顔をそっと取り外した。左の袖で血を拭い、くしゃくしゃになっていた顔を指先で作り変える。僕が昔見たのがほんの少し年を取っただけの、きれいな顔になった。みる君はでき上がった顔をためつすがめつ眺めてから、そっと元に戻した。
「ごめんだけど、警察を呼んでくれないかな」みる君はお母さんのきれいな顔の方を向きながら言った。「どうも、めんどうくさくて」
それからしばらくは、僕の周りは大騒ぎになった。うちの玄関先に取材に来たマスコミに、お母さんは「礼儀正しくていい子で……」と答えた後、少し考えて、「でも逆に少し怖いところもあったかもしれませんね」と言い足した。みる君とは別に関係のない僕の学校でも特別集会が開かれて、カウンセラーが置かれた。僕はまっさきにカウンセリングを受けるよう指示されたけれども、白髪交じりの髪を後ろで束ねたカウンセラーの口が臭くて何も話す気が起こらなかった。今通っている心療内科の先生は、そこそこいい人のように見えるけれども、先生に会う前に顔を作るのは欠かすことができなかった。
あんなことを体験した僕はどんな顔をするべきなんだろう。あんなものを見た人間は。心療内科のトイレで顔をいじくりながら、僕はずっと、ふさわしい顔を考え続けている。
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