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かおはずし
自分の顔を外すことを教えてくれたのは、みる君だった。
みる君は僕のうちのお向かいに住んでいた。僕が幼稚園児のとき、お向かいの大きい家が取り壊されて、たくさんの庭の木が植えられ、真新しい家が建てられた。その家に引っ越してきたのがみる君の一家だった。近所に住んでるのは、僕とみる君のほかはおじいちゃんおばあちゃんばかりだったから、自然と仲良くなった。両方の家の間にある道でバドミントンをしたり、フリスビーを投げたりした。春になると、道端に咲いている名前も知らない花の蜜を吸った。みる君は「これでおやつ、いらないね」と言った。
おたがいの家にもときどき遊びに行った。みる君の家に遊びに行くと、いつもきれいなお母さんが出迎えてくれて、ジュースと、おやつを出してくれた。ふわふわのシュークリーム、まるごとの苺が乗ったムース、カスタードのはさまったフルーツタルト。お店で売ってるものみたいだったけど、ぜんぶ手作りだった。
「みる君のお母さん、すごいね」僕が言うと、みる君は自分のきれいなフォークに少しだけカスタードをつけると、タルトを僕のほうに差し出した。
「全部食べないと怒られるんだけど」色とりどりのタルトを見て、みる君は言った。「僕は別にいいから、よかったら僕の分も食べて」
僕はみる君から貰った、ゼラチンのかかったフルーツを食べた。みる君で出されるおやつは、どれも甘くて、口の中がねっとりした。
家に帰ってからみる君のおやつの話をすると、お母さんはいつも「まぁ」と感心してから、少し困った顔をした。
「明日は僕の家に呼ぶ約束しちゃった」
「どうしたらいいのかしらねぇ」お母さんは右手を頬に当てた。「今度は駅向こうのケーキ屋さんかな。ねぇ、いつも言ってるけど、買ってきてるなんて言っちゃだめよ」
「言わないよ」お母さんはそんなにお菓子作りは得意じゃない。
みる君は僕の家にあがるとき、靴を揃えて、「お邪魔します」と頭を下げるのを忘れなかった。ふだんは使ってもないようなお皿に乗せたケーキとコップを持ってお母さんが部屋に入ってくるときも、「お邪魔してます」と言ってにこりとする。お母さんが逆に少しどぎまぎして、「お構いもできませんで」なんて返しているのがおかしかった。
「僕だっていつも言われちゃうんだよ、みる君のお家にあがるときには靴を揃えなさいよ、お邪魔しますって言いなさいよって」僕はストローを使わないで、オレンジジュースを飲みほした。ガラスコップに、うすオレンジの跡が残った。
「ふつうやるもんじゃないの」
「ふつうは……どうかな。でもみる君を見習えっていうのは言われる」
みる君は半分ほど食べたショートケーキの皿をじっと見下ろした。その顔に、とつぜん、薄い影が差したような気がした。もうそろそろ夕方になっていて、みる君は窓に向かって座っていたのに、みる君の顔を照らしているオレンジ色の光が、ぼやけてしまったような。
「無理しなくていいのに」みる君はつぶやいた。「これ、買ってきたケーキでしょ。いつもそうでしょ」
「ばれた?」口止めされていたのを思い出したけど、まぁいいや、と押し込めて、僕は笑った。「意地張ってるんだよ、母さんそういうの気にするし。僕はポテチとかがいいんだけど」
「僕も……」みる君は言いかけて、黙った。しばらくして顔を上げる。その顔が、ますますぼやけて見えた。
「ちょっと、ごめんね」
みる君は手を顔のすぐ横にかざすと、顔をぱかり、と外した。みる君の顔のあった部分は、マンホールの穴からのぞいた地下みたいに真っ黒だった。みる君は顔をお面みたいに持っていて、その口許を指でぐい、と押し上げた。
「これでよし」
そう言うと、みる君は顔をもとに戻した。さっきまでぼやけていた顔ははっきり見えて、口はみる君が動かした通り、笑顔の形になっていた。
「驚いた?」
「それ……」僕はみる君の笑顔をまじまじと見て言った。「それ、どういうこと。どうやってやるの」
「別に僕にとっては難しいことじゃないんだけど」みる君は首を傾けた。「例えば、お母さんの機嫌が悪いとするよね。そういうとき、どういう顔をしたらお母さんが怒らずに済むか、たくさん考えたらできるようになったんだ」
「あのお母さん、機嫌悪くなるの」
僕には想像もできなかった。うちのお母さんと取り替えてほしいと思うくらい、優しくてきれいなお母さんだ。
「怒るよ」みる君は笑顔のまま、短く答えた。「ものすごく」
へぇ、と僕が返すと、みる君は顔のふちを指でなぞって、
「顔をこうやって作ること、ほかのみんなはできないのかな」
「僕はできないよ」
「いつかはできるよ。多分……ほかの人がこうしているところは見たことないけど」
五時の時報のメロディーが、窓の外から聞こえてきた。みる君はケーキの残りを食べ終わると、立ち上がった。
「じゃあ、また」
みる君は見送りに玄関に来た僕とお母さんに、あの笑顔を見せて帰って行った。
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