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うそなき
それからしばらくして、みる君は僕と遊ぶことが減っていった。どこかの私立中学を受験するとかで、まぁ公立に行くことはないだろうな、とみる君は言っていた。当然同じ中学に行くことになると思ってた僕はがっかりしたけれども、家まで引っ越すわけじゃなし、と思いなおした。
僕はというと、六年に上がるのと同時に、塾に行かされることになった。国語と算数で週二回、僕からしてみたらたまったもんじゃない。塾の先生が横の中学生にかかりきりになっている間に答えを写したり、消しゴムを投げて遊んだりしてたから、成績が上がるわけないし、僕としては別にどうでもいいことだった。ただどうでもよくないと考えてるのはお母さんで、算数のテストで三十四点を取ったときにはさすがにまずかった。
「四年までは良かったのに、どうしてこうなっちゃったの」食卓を挟んでのお説教が二十分を超えたあたりから、お母さんは同じようなことを繰り返し始めていた。「そんなについていけない内容なの? そうじゃないでしょう? ふつうの小学校なんだから。他の子が解ける問題なら、がんばって解けないはずないじゃない。あんたが真剣じゃないから、解けてないのよ。まじめにやってないからよ。この間塾で授業態度について聞いたとき、お母さんどんなに恥ずかしかったか分かる? 高いお金払ってるのに、どうしてやろうとしないわけ」
高いお金払ってるのなら、別に行かせなくてもいいのに。とは言わなかったけれど、顔には出ていたみたいだった。お母さんは身を乗り出して、
「お母さんはあんたができると思ってるからやらせてるのよ。今できてないとね、中学校に行ったらもっとできなくなるし、高校もどこも行けなくなっちゃうのよ。そうなって困るのは誰なの? あんたでしょう? あんたが困らないようにお母さんこう言ってるの。分からないの?」
一息ついて、お母さんはお茶を淹れ始めた。ポットに水を注ぎながら、
「ここまで言っても、反省すらしないんだから」
カチリ、とポットのスイッチを押す。
「みる君のお母さんに今日ばったり会ったんだけれども」
僕はへぇ、と返した。みる君とはクラスが違うから、今はもうときどき廊下で話すくらいだった。
「がんばりすぎていて心配なくらいだ、って言ってたのよ。うらやましくてね。十二時過ぎても寝てないんですって、あんたみたいに遊んでるわけじゃないのよ」
僕は十一時には寝てると言いたかったけど、黙っておいた。
「まだ合格するかどうか、って言ってたけど、どこかいいところに受かるでしょう、みる君なら」
ポットのお湯が沸き始めていた。お母さんはため息をついて、
「あんたもみる君みたいなら良かったんだけれどもね。頭もいいし、礼儀正しいし」
お母さんが紅茶を淹れる音を聞きながら、僕はふと、今の自分はどういう顔をしているのかな、と思った。何年か前に、みる君がやってみせたことを思い出した。顔の横に手をやって、自分の顔を外した。鏡や写真以外で、自分の顔を見るのは初めてだった。他人の顔みたいだけど、多分こんなものなんだろう。ふくれっ面で、眉が寄っている。
僕はその口の端をぐっと下げて、眉も下げ、大丈夫かなと思いつつ目を何回か軽くついて涙目にした。痛くはなかった。顔を戻すと同時に、紅茶を自分の分だけ置いたお母さんが向かいに座った。さっきまで眉根にしわを寄せていたお母さんの表情が、ふと柔らかくなった。
「ごめんなさい、言いすぎたかもしれないわね」食卓の上のテストを僕の方に押し戻して、「無理はしなくてもいいから、次は今回よりいい点を取ってくれればそれでいいわ。今日はもう寝なさい」
その日以来、僕は顔を外して作り変えることを覚えた。これはいろんなところで役に立った。お母さんであれ、先生であれ、相手が怒ったらどういう顔を作ればいいのか分かった。ふさわしい顔つきが分かれば、何を言うべきか、姿勢をどうすればいいかということも自然と身についてきた。廊下で出くわしたみる君にそう報告すると、みる君は大人びた笑顔で、
「いつかはできるって言っただろ」と肩をたたいてきた。今の顔も、みる君は作っているのだろうか、と思った。
みる君は、家から電車で一時間半のところにある有名な私立の中高一貫校に入った。僕はそのまま公立の中学校に入り、小学生のころからの友達や、新しくできた友達と遊びながら、どうにか成績を持ち直させた。人当たりがいいって推薦されて、立候補してみた生徒会では書記になった。今では通学時間も合わなくて、直接話すこともほとんどなくなったみる君に、「生徒会に入っちゃった」とSNSで送ると、「俺も」とだけ返ってきた。
生徒会の会長は、すごく人気のある男子生徒だった。先生からも生徒からも信頼されて、慕われて、どんなときでも大人みたいな笑みを崩さない人間だった。僕はその顔をじっと観察しては、家に帰ってその会長みたいな顔を作る練習をした。顔立ち自体はまぁ仕方がないけれど、同じような表情はできる。その顔を真似してみんなの前に出たら、本当に自分が会長のような人になったように思えた。おかげで友達は増えたし、先生からの評価も上がったけれども、たまにひとりで顔を外して、いじくっていると、自分の顔がどういうものなのか分からなくなるときもあった。
三年生の春ごろ、そろそろ進路を決めなければいけないときが来た。お母さんが夕飯の豚汁をかき混ぜながら、
「あんたは、この間話し合ったとこでいいのね」ときいてきた。僕の志望校は県でトップクラス、というわけではないけれど、お母さんいわく「行っても恥ずかしくはないところ」だ。
そこに行くつもり、と答えると、お母さんはコンロの火を止めて、
「みる君、卒業したら別の高校に行くってうわさ」と言い出した。
お母さんの口から、みる君の名前が出るのを聞くのは久しぶりだった。
「別の高校って、公立?」
「ただのうわさよ」豚汁をよそいつつ、「だって、ほら、みる君のお母さんが言うわけないじゃない。でも本当だとしたら残念ね、入るのもすごく大変だったでしょうに」
お母さんは小さなため息をついた。「人生分からないもんだわねぇ。がんばってたって聞いてたのに、やめちゃうかも知れないんだから」
ご飯を食べ終わったあと、みる君にメッセージを送った。返事はすぐには来なかった。二階の窓からは、みる君の部屋の窓も見える。電気が消えていたのが、二時間ほど経って、明かりがついた。
「ごめん、遅れた」とみる君からメッセージが届いた。
「いいよ」と短く送る。
「塾で。それと帰ってから少しケンカして」数分経ってから、そう送られてきた。
「お母さんと?」みる君のお父さんは、仕事でいつも深夜に帰ってくる。この時間だとまだいないだろう。
「そう」また続いて、「進学で」
「うわさは聞いてる」送ってから、しまったかなと思った。でも遅い。
「広まってるな」
二十分ほど経って、もしかしたら寝たかな、と思ったことに、返事が来た。
「多分、俺は向いてないんだな」
みる君の今行ってる中学については、うちでもうわさとして聞いたことがある。黒板が教室に三面あって、先生は早口で説明しながらその黒板全部に数式や化学式や年号を猛スピードで書いていく。生徒はその黒板を見ながら、ひたすらノートに写していく。少しでも生徒が下を向いたら、板書のスピードが早くなるんだとか。それが七時間目まで、たいがいの生徒はその後に塾に直行する。そんな話を聞きながら、自分たちには縁のない世界だけど、いやだなぁ、と笑っていた。
「きついんだろ」悩んだ末に、そう送る。
しばらく経って、「きついんだけれど」と返ってきてから、数十秒後、
「でもケンカするのはよくないな」
それは、まぁ、とあいまいな返事を僕がすると、みる君からまた送られてきた。
「期待されてるんだから」
返事を送る前に、みる君は「明日も早いから」と言って打ち切ってきた。僕は会話の履歴を見ながら、みる君はどんな顔をしてこのメッセージを打ってたのか、と考えた。
あのとき、会えばよかったのかもしれない、と思う。せめて通話でも。けれどできなかった。できなかったことを、僕はずっと覚えているだろう。
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