第二話 初恋

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 眩しそうに茜色に染まる空を睨み付けている、その横顔が、今までの彼のイメージとは真逆のものだったからだ。  怒り、悲しみ、苦しみ、後悔、絶望――それらがない交ぜになったような、激情が内包されている表情に、僕は息が詰まるような感覚を覚えた。  ただ、それだけなら、僕はまだ引き返せたと思う。溜め息を漏らした彼の顔が、憂いを帯びてさえいなければ。  僕は観月脩(みづきしゅう)という人物に、一瞬見せたその表情に、魂を揺さぶられた。初めてのことに戸惑い立ち尽くしていると、先生が眼鏡を掛けて机に向き直るのを見て、反射的に教室の扉をノックした。  扉の向こうから先生の「どうぞ」という声が聞こえ、「失礼します」と引き戸を開けて化学準備室に入る。 「……先生……」 「どうしました、風岡(かぜおか)君?」  つい先ほどまでの表情と一変し、にこやかに笑みを浮かべて優しい声色で僕に話し掛ける。何も言わない僕に目を丸くしたが、僕が手に持っている紙の束を見て納得したように頷く。 「ありがとうございます。課題を持ってきてくれたんですね」 「あっ、はい……!」  先生に言われて僕はようやく自分がなぜここにいるのかを思い出し、慌てて課題のプリントを手渡した。 「化学担当の子の代わりですよね。お疲れさまです」 「いえ……失礼しました」  半分逃げるようにして僕は足早に化学準備室を後にした。  だって僕はもう気付いてしまったから。茶の色のついた眼鏡の向こうで、僕を見る彼の瞳には何の感情の動きもないことを。観月先生が生徒や教師に見せている姿は、彼の真実の全てを覆い隠すためのものでしかない。  心臓が痛いほど早鐘を打っていた。それが歩く速度が速いせいではないことは明白で、僕はこの現象が何に起因しているのか脳をフル稼働させて考えたが、答えは見付からなかった。  理解不能の感情を持て余した僕が、その日の夜見たのは、眼鏡を外した観月先生が僕にキスをする夢だった。翌朝目覚めて、ようやくこれが恋だと知った。
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