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室内が静かになったのを確認し、僕は苦しくて顔を上げようとした。が、彼は手に込めた力を弱めてはくれなかった。
小さな金属音。チェーンが擦れて鳴る音だ。
「こっちも我慢してたんだ。そのままにしてろ」
さっきまでとはワントーン低い、冷たい声が降ってくる。この部屋――化学準備室には先生が二人居て、さっきまで女子生徒と話していたのは目の前に居る人とは別人だったと言われたら信じてしまうほどの変貌ぶりだった。
「くッ……」
くぐもった短い声の後、喉の奥に飛沫が放たれる。僕は息が出来ない苦しさで半分溺れているような状態になり慌てて顔を離した。
「はは、全部飲み込んだな」
口の中に胃液と精液の混ざった苦い味が広がる。見上げた彼の笑顔が歪んで見えたのは、きっと生理的に溢れ目尻に溜まった涙のせいだ。
「……先生」
強請るように彼――観月先生を見詰める。頬を夕陽色に染めた先生は呆れたように溜息を吐いてチャックを上げて席を立った。
「お前な、ここどこだと思ってんだよ」
「学校の、化学準備室です」
床に座り込んでいた僕は、口を手の甲で拭いながらゆっくりと立ち上がる。女子生徒が置いていったのだろう課題を含めた紙束を先生は紙袋に詰めた。
「馬鹿か。流石に本番は無理だって。さっきのだって危なかったじゃねえか」
呆れ顔で俺を見上げる先生の顔をじっと見詰める。日が傾き暗くなっても、先生の瞳と髪の色は金色に近い薄茶で、綺麗だった。
「……好きです、先生」
僕の台詞に、先生の瞳が微かに揺らぐ。しかしそれは一瞬で、眉間に皺を寄せて不機嫌そうに「あっそ」と呟いた。
「そんなに欲求不満なら塾の後にいつものバーに来いよ。相手してやるから」
面倒くさそうに紙袋に入れた課題の用紙を取り出すと、机の上に投げ出して再び椅子に重い腰を下ろす。
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