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「何だよ、風岡。着替え終わったんなら行くぞ」
灰皿に煙草を押し付けながら立ち上がる。そして僕のシャツチェスターを投げ渡した。
それに袖を通しているうちに、先生は自動精算機にお金を投入していた。出入り口で金属音がする。
「帰るぞ」
先生は元の表情に戻っていて、僕は慌てて荷物を持って先生の後に続いて部屋を出た。
部屋の正面には、下り専用のエレベーターがあって、ボタンを押して待つ。
「先生……煙草吸うんですね」
「……まあ、たまに」
先生はそれ以上何も言わなかったし、僕もそれ以上聞かなかった。僕は直感で、それが先生が眼鏡を掛けたり外したりするのと同じような役割を果たしているのだと思ったからかもしれない。
先生とはホテルの前で分かれた。恐らくここから帰るための最寄り駅は同じはずだが、駅に行くまでに一緒に歩いている姿を学校の誰かに見られたら不味いからだろう。
僕は鈍く痛みを発する下半身を半分引き摺るようにして家に帰り、そのままベッドに横になった。
嬉しかった。先生とキスをして、肌を重ねて、先生の一部を身体に受け入れて、一つになって。
夢のようだった。幸福だと思った。あの時は、確かに。
でも、僕は夢から覚めてしまった。先生の視線の先には、僕が居ないことに気付いてしまった。
先生はきっと、誰かのことを、ずっと想っている、と。
――それでもいい。いつか、先生がその人のことを忘れて、僕を見てくれる日が来るかもしれない。
ほんのわずかな希望でも、僕はそれにしがみ付いた。先生のことが、好きで好きで、仕方なかったから。ただ今は、僕の我儘に付き合ってくれているうちは、希望を持っていられる。
僕は静かに目を閉じた。幸福な夢を見られるように、と祈りながら。
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