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謙さんは駅で別れる時に「もし何かあったら連絡して」と僕に連絡先を渡した。何か思惑があるなら、僕だけが連絡を取れるように決定権を委ねたりはしないだろう。御蔭で少しの間悲しみを忘れられた。
家に帰ると、珍しく家に電気が点いていた。
「一温、随分帰りが遅かったわね。どういうこと?」
僕が靴を脱いでいると、母がネグリジェ姿のまま僕の前に仁王立ちして咎めるような視線を向けていた。
「……人身事故で電車が止まってて」
「あら、そうだったの。災難だったわね」
咄嗟の嘘にしては上手く誤魔化せたと思う。母さんももう興味を失ったようだった。
「母さんこそ、出張じゃなかったの?」
「それが銀座店でトラブルがあって、明日対応しなきゃいけなくなったのよ」
「母さんも災難だったね」と言うと「そうね」と疲れた顔で笑って一階の寝室に歩いていく。
「母さん、朝早いからもう寝るけど、あなたはちゃんとシャワー浴びて寝るのよ」
「うん、分かった。おやすみ」
母さんが寝室に入るのを見届けて、思わず溜息が零れた。先生との関係について知られてしまったら、と今までそのことだけを危惧していたからだ。
僕は母の言いつけを守ってシャワーを浴びて服を着替えてベッドに横になった。
――もう、先生との関係は終わったのだ。
そのことを思い出して、また胸が苦しくなった。「終わり」を告げられても、まだ先生のことが好きな気持ちが消えない。どうすればいいのか分からなかった。
だから、僕は身体を起こすと、謙さんから貰った連絡先にメッセージを送っていた。今日の御礼とまた話を聞いて欲しいことを書いて。
すぐに謙さんからメッセージは返ってきて、何往復かやり取りしているうちに、僕は眠くなってベッドに横になって目を閉じた。
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